墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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仁馬山古墳・植松古墳 山口県下関市延行

観音堂古墳に寄った後、一本西の坂を上がって国史跡の仁馬山(じんまやま)古墳へ。

 

坂の上の様子。

このあたりは道が細く、停められそうなスペースもありません。最初は車で上がりましたがバックで下まで戻りました。

 

右手には、植松古墳。

 

北側から。

 

その西側に上ヶ原古墳群のピンが立っています。


茂みに入ってみましたが、墳丘は判らず。


最初の写真の左に写っていた、仁馬山古墳の解説板。

国指定史跡 仁馬山古墳
平成3年(1991)5月15日指定
仁馬山古墳は、綾羅木平野を望む台地の縁辺部に築造された、山口県西部で最大規模の前方後円墳です。築造時期は4世紀後半で、下関市域では最も古い古墳の一つです。古墳の残存状態は極めて良好で、後円部が大きく高く、前方部が低くて短い古い形状を呈しています。墳丘の規模は、全長75m、後円部の直径47mで、後円部のみ三段に築成されています。
平成17年から20年にかけて、四次にわたる発掘調査を行った結果、古墳は築造前に自生していた樹木を焼き払い、周囲を掘り下げて盛土したことがわかりました。墳丘の構築方法は、後円部の基底部分で、高さ1.4mの土手が確認されたことから、円形の土手を築いては内部に土砂を入れる、という作業を繰り返して盛り上げたと考えられます。墳丘や裾で埴輪片が出土していることから、部分的に円筒埴輪が立てられていたと考えられます。
埋葬主体は直径約1m、長さ約6mの巨大な割竹形木棺を大量の粘土で覆った粘土槨と呼ばれる構造で、ほぼ完全に残存することもわかりました。粘土の表面には、棒で突いたり叩いたりした痕跡が明瞭に残っていました。
仁馬山古墳の被葬者は、古墳の規模や主体部の構造などから、当地域一帯を統治した首長で、大和政権と密接な関係をもった人物であったと思われます。
山口県教育委員会 下関市教育委員会

 

実測図部分。

 

枝道に入ると木々の先に墳丘が。

 

入口の標柱。

 

進むと前方部の左裾に出ました。

 

くびれ部あたり。

 

そこから墳頂へ。

 

鞍部から後円部を。

 

後円部墳頂。右奥は新下関のビル群。

 

後円部から新下関方面を。向こう側からも良く見えていました。

 

墳丘のすぐ南裾にある円墳。解説板には「仁馬山南墳」と。

 

後円部墳頂から前方部側を。

 

ズームするとちらりと海も。

 

北側の山も、木々の間から。

 

前方部に移って振り返った後円部。

 

後円部裾から北側側面。

 

後円部先端裾。

 

墳丘の南側面と、仁馬山南墳(左)

 

そこから南方向。奥の山々は福岡県でしょうか。

 

”南墳”から見た墳丘。右が後円部。

 

前方部右裾から。