墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

画像が出ない場合はPCで、クロームOSでお試しください。

稲荷塚古墳 東京都多摩市百草

前回のつづき。

この日の次の目的地、稲荷塚古墳はスマホマップで徒歩28分と出た。高架線をくぐり乞田川を渡ると幅広の多摩ニュータウン通り。正面の丘陵の向こう側だった。 

 

ここは”時間の節約”に方針変更し、モノレールを見ながら駅へ戻って乗り場のタクシーを利用。

 

古墳のある場所が”恋路稲荷神社”となっていた。運転手さんは地元のベテランの方だったが初めて行く場所でわからないという。スマホとカーナビを見比べられたので問題なかったが、稲荷塚古墳の知名度を上げることに少し貢献したのではないか。

料金は千円を少し超える位だった。

 

前の道は坂になっており、台地端に立地していることが実感できた。

 

墳丘の上に祠。下記の説明によればもとはさらに2mの土盛りがあったが明治期に神社を造るにあたり削られたそうだ。

 

多摩市による詳細な説明板があった。

東京都指定史跡 稲荷塚古墳

古墳とは、土を盛り上げてつくられた墳丘をもつ有力者の墓で、3世紀の末頃から8世紀の初め頃にかけての約400年の間に、全国で15万基ほどつくられたといわれています。この稲荷塚古墳は、7世紀の前半頃につくられたものとみられ、古墳の形は全国的にも珍しい八角形と考えられます。
古墳の全長は38mで、一番外側に幅2mほどの周溝とよばれる空堀がめぐっています。その内側が長さ34mの墳丘で2段に築かれています。墳丘1段目は周溝の内側に6mでめぐる低い段で、地上から見て約2mの高まりとして残っている部分が長さ22mの2段目にあたります。もとは4mほどの高さがあったとみられますが、明治時代に墳丘2段目を削って神社が建てられたことから、半分ほどの高さとなっています。
墳丘2段目には、遺体を葬った石でつくられた部屋があります。横穴式石室とよばれるもので、天井部分の石はなくなっています。全長約7.7mで、一番手前が通路である羨道、真ん中が前室、一番奥が玄室という部屋になっています。部屋の底には握りコブシほどの石が敷き詰められています。横穴式石室は河原石などの自然石を積み上げてつくられるものが多いのですが、この古墳では凝灰岩質泥岩という柔らかい石を平らに削って加工した切石とよばれる石材を組み合わせて精巧な部屋がつくられています。また玄室奥壁には幅約1.2m、高さ約1.6mの鏡石とよばれる一枚石や、玄室と前室の境には高さ1.7mほどの巨大な門柱石が使用されており、当時の高度な技術をうかがうことができます。
稲荷塚古墳の石室は、木造の覆屋で露出公開してまいりましたが、非常にもろい石材でつくられおり、傷みが激しくなってきたことから、薬品などによる保存修理を行い、埋め戻して保護することになりました。石室の埋まっている位置はブロック舗装で示してあります。多摩市教育委員会

 

とても珍しい、 八角墳 - Wikipedia

明日香村の八角墳、牽牛子塚古墳は今年2月に訪ねた(形は把握できなかったが)

国史跡・牽牛子塚(けんごしづか)古墳 奈良県高市郡明日香村越 - 墳丘からの眺め

 

標柱には最小限の説明があった。

全国的に珍しい八角形墳。幅2mの周溝に径34m・2段の墳丘を築き、2段目に切石造りの横穴式石室がある。7世紀の古墳。近畿以外で八角形墳が発見されたのは初めてである。多摩市教育委員会

 

墓地の側に鳥居と石段があった。

 

石段脇には東京都による説明板。英語訳つき。

東京都指定史跡 稲荷塚古墳
所在地:多摩市百草1140-1 稲荷神社内
指定:昭和28年6月19日旧史跡指定 昭和33年10月7日史跡指定
稲荷塚古墳は多摩丘陵の北辺、多摩川に注ぐ大栗川右岸の舌状台地上に立地しています。凝灰岩の截石切組積(きりいしきりぐみづみ)で築かれた胴張り複室構造の横穴式石室を主体部とします。石室は全長約7m、玄室部高約2mです。築造年代は7世紀前半と推定されています。昭和61年・平成2年の墳丘周囲の確認調査では周溝が確認され径約34mの円墳とされましたが、畿内などで十数例が知られるにとどまる、全国的にも類例が少ない八角形墳とも考えられています。平成6年の調査では、墳丘下部に一直線に並ぶ貼石が確認されました。これは墳丘裾部に配置された装飾や区画のための外護列石の可能性があります。外塚幅38mで幅2m周溝が巡り、その内側に復元高4mの墳丘が想定されています。二段築成で、墳丘一段目は幅6mのテラス状を呈しています。墳丘二段目は対角径22mで、ここに主体部が構築されています。主体部の中軸線は稜角に一致しています。設計において、高麗尺(1尺=35.5cm)が基準尺として使用されたと推測されます。副葬品の内容は不明です。周溝東北側から7世紀前半頃と思われる土師器甕・坏の破片が出土しています。現在、石室は保護のため埋め戻されていますが、平面形が分かるよう表示がなされています。
平成22年3月建設 東京都教育委員会

 

墳丘から南西側の眺め。手前のブロックの白い部分が石室平面を表している。

 

北側は広場のようになっていた。

 

墳丘の木々の間から北東側。

 

東側。ここは木々や遊具のある稲荷塚児童公園。時間帯によっては子供たちで賑っているのでは。

 

北東側から見た墳丘。

 

遊具の角に「和田古墳群」と書かれた標柱があった。

 

地図と解説があって、他の古墳との位置関係が把握できた。

大栗川右岸、和田・百草地区の丘陵上には、6世紀前半頃から7世紀中頃にかけて造られた稲荷塚古墳をはじめ、臼井塚古墳・庚申塚古墳・塚原古墳群など多くの古墳が存在します。また、大栗川をはさんだ対岸の十二社神社から厚生荘病院にかけての丘陵斜面には中和田横穴墓群、その丘陵上には日野市万蔵院台古墳群があります。これらをまとめて和田古墳群と呼んでおり、都内でも有数の古墳群のひとつに数えられます。

 

この敷地は江戸時代の黄檗宗の寺院・資福院の跡でもあった。 

 

こちらの方のブログによれば、恋路稲荷神社は墳丘の東側にあった資福院が明治の廃仏毀釈で廃された後に古墳上に建てられたもので、その名は和田古墳群がある一帯(多摩川の南側にあたる大栗川両岸)の「恋路ヶ原」にあり、さらに恋路は相模国府・武蔵国府の官道の「国府路」が変化したものとされているとのことだった。

 

 敷地の隅に立派な花崗岩の石碑があった。

 

古墳の北側には販売中の戸建て住宅。

 

ここもゆるい坂道。

 

戸建てのさらに北側にあった「とうふ北海屋」

このとき店は閉まっていたが、運転手さんによるとこちらの豆腐はおいしいと評判なのだそう。

稲荷塚古墳見学はとうふ屋さんの開いている朝がいいかも知れません。

つづく。