薬師岳登山で富山に前泊したが、その日は朝から富山と能登の古墳めぐりをした。
富山県内には国史跡の古墳が3ヶ所あるが富山湾沿いの古墳を地図で見ると、その北の能登の古墳も近いので合わせて5ヶ所の古墳を車を借りて回った。
はじめに目指したのは中能登の古墳。
写真は富山と石川の県境付近から中能登町側。一車線部分も多い峠道だった。
ズームで。正面に広がるのは邑知(おうち)地溝帯。断層により出来た細長い平地。
邑知地溝帯は能登半島を羽咋から七尾まで約25kmを斜めに横切っており、雨の宮古墳群はそのほぼ中間に位置している。
平野に降りると広がる水田。去年訪ねた佐渡島と似た雰囲気だが、佐渡の方が山は高く平野部の距離は14kmと短い。
さすが国史跡、わかりやすい案内板があった。
トンネルを抜けて右折し細道を行った先に広い駐車場と資料館建物があった。
雨の宮能登王墓の館。一般200円。火曜日と12月~3月20日までは休館。
駐車場には雨の宮古墳群の説明板があった。全部で36基の大古墳群だった。
雨の宮古墳群
雨の宮古墳群は、眉丈山(びじょうざん:標188m)の山頂を中心に、4世紀の中頃から5世紀の初めにかけて造られた36基の古墳からなる古墳群です。
最高所の通称雷ヶ峰(らいがみね)に位置する1号墳は、墳丘長64mの前方後方墳です。前方後方墳としては県内最大規模を誇っています。墳丘は2段に築かれ、斜面は葺石に覆われています。
2号墳は、1号墳の北東に、向き合って立地する墳丘長約65mの前方後円墳です。こちらも墳丘は2段に築かれ、斜面は葺石で覆われています。
これら2つの古墳の被葬者は、いずれも能登一円に支配権を及ぼした人物であったと推定されます。
雨の宮古墳群は、古墳時代のこの地域の歴史を考える上で、邑知(おうち)地溝帯を挟んで対峙する、小田中親王塚、亀塚両古墳とともに欠くことのできない重要な文化財です。
こうしたことから、昭和57(1982)年10月12日には史跡に指定されました。鹿西町では、この古墳群を永く保存し、活用していくため平成4年から5ヵ年にわたり発掘調査を実施し、文化庁の史跡等活用特別事業により、古墳が造られた当時の姿に復原しました。1998年3月 中能登町
見学者は最初は自分ひとりだった。はじめに10分ほどのビデオ解説を見る。
その後に扉を開けて中の部屋へ。入ると中央に雨の宮1号墳の埋葬施設(粘土槨)が実物大で復元されていた。周囲にパネルや展示物があり解説を受けながら一回りする。
足元側から。右奥の銅鏡が被葬者の顔の横に置かれていた。
銅鏡は倭製の神獣鏡の一種で直径17cm。類例のない珍しいタイプ。展示はレプリカ。
1号墳からのその他の副葬品の復元品も展示されていた。鏡や石釧を含めて重要文化財に指定されている。
短甲(方形板革綴短甲)も出土している。13cm×9cmの鉄板を革で綴ったもの。
復原品もあった。
周辺の古墳分布。雨の宮古墳群は邑知地溝帯の中央に位置するが、その出入り口の台地端にも古墳が立地する。
この平野部は今でも南西部に邑知潟が残るがかつては能登半島を東西に連絡する水路であった。現在も七尾線や国道159号線が通る交通の要衝だが、交通や物流の中心が水運であった古代も同様であり、そこを見わたす場所に墳丘を築いた被葬者は大きな力を持っていたと推察できる。
スマホ画面では読みにくいが、雨の宮古墳群と平野部を挟んだ対岸に小田中親王塚古墳(陵墓)がある。
雨の宮古墳と同時期の築造だが 出土品の特徴から異なる勢力とされており、地域の有力者を見張るために大和から派遣された人物ではという興味深いストーリーも解説の方から伺えた。
雨の宮古墳群は邑知地溝帯の北側に連なる標高188mの眉丈山山頂(通称 雷が峰)を中心に尾根上に展開する。
同じ尾根を西に1km行った場所にもテンジクダイラ古墳群が確認されていて、合わせて史跡に指定されている。
見学後、施設の裏側からいざ古墳へ。結構急で施設で借りた杖が役立った。
つづく。