前回のつづき。
新井家ふるさと記念館を訪ねたあとに、近くの野木神社を参拝した。
境内には大木が並び立ち、ひんやりと気持ちよかった。
ご由緒によれば、主祭神は菟道雅郎子命(うじのわきいらつこのみこと:応神天皇の皇太子)で、仁徳天皇の時代(約1600年前)、下野国造奈良別命が当国赴任の折に遺骨を奉じたそう。
右の案内はホタル祭りのお知らせで、6/11,12の夜に近所の「のぎ水辺の学校・清水谷」で開催される。写真では結構飛び交っていた。
社殿の内部には絵馬や算額があるようだが見学はできなかった。
右の、町指定文化財「黒馬繋馬図絵馬」は谷文晁の作といわれる大絵馬で、浅草寺の「白馬繋馬図」と一対をなすといわれているそうだ。
また左の町指定文化財「算額」は明治22年に地元在住の野鳥勝次正行が奉納したもので、円の直径と正方形の辺の長さを算出させる問題と解答が描かれているとのこと。
この神社の境内にはふくろうが棲息しているようで、ふくろうの彫刻も立っていた。
とちぎ名木百選の野木神社のいちょう。
下記はその解説。
町指定文化財 公孫樹(大イチョウ)
指定年月日:昭和52年11月30日 所在地:野木町大字野木2404番地
この大イチョウは、今から約1200年前(平安時代延暦年間)に征夷大将軍坂上田村麻呂が蝦夷討伐に成功し、凱旋の途中、野木神社に参りその功を奏でました。
その奉賽として、神社を笠懸野台手函(現在の野渡大手箱)から現在の「身隠の森」に移築し、記念にイチョウの木を奉植したものを伝えられています。
この大イチョウには、婦人たちが乳が出て乳児が健全に育つように米ぬかと白布で作った模型の乳房で祈願する民間信仰があります。
昭和57年3月 野木町教育委員会
拝殿の後ろ側。
本殿には大きな覆い屋根がかけられていた。組物の張り出しが6,7重と豪華だった。
文政2年(1819)に再建された社殿。
こちらにも大谷石の端正な倉があった。
本殿の後ろの境内の森では、多くの方々が望遠レンズを向けられていました。
望遠鏡もセットされていて、覗かせていただくことができました。
神々しい姿に思わず「おー」とため息が出てしまいました。
”生”フクロウ観察は初体験、貴重な機会を提供していただきありがとうございました。
手持ちのカメラでも最大ズームでなんとか姿をとらえることができました。
別のエントリのために調べていたら、「野木」という地名には崖の意味もあることを知りました。
「ノゲ」は、「崖(がけ)」を意味する語と言われている。崖をいう地形地名としては、野毛が多く、野木や乃木もそうであろうと言われている。いつからか上野毛・下野毛に分かれた。
とすると港区の乃木坂も急な坂という意味になるのでしょうか。
と、思ったら乃木坂 - Wikipediaによれば、乃木坂のほうは乃木将軍が近くに住んでいたことにちなみ「1912年(大正元年)9月、大日本帝国陸軍の重鎮で、学習院院長であった乃木希典大将の殉死を悼み、赤坂区議会が改名を議決したことに由来」し、江戸時代は「幽霊坂」と呼ばれていたとのことでした。