前回のつづき。
鉄砲坂を下った先の道を右に進むと、北に上る坂があった。
観音坂との標柱。
観音坂
西念寺と真成院の間を南に下る坂。坂名は真成院の潮踏観音にちなむ。別名は西念寺坂・潮踏坂・潮干坂。潮踏観音は、江戸時代以前に四谷周辺が「潮踏の里」と呼ばれたことにちなむ。潮踏観音は、潮の干満につれ像の台石が湿ったり乾いたりするので潮干観音とも呼ばれた。
坂上から見下ろしたところ。潮の干満があったということは、日比谷入り江が溜池~赤坂~赤坂御用地を抜けてここまで海岸線が来ていたということか。
坂下の道に戻ってカーブに沿って歩く。かつては気持ちよかったであろうベランダ。
観音坂にほぼ並行するように北に上る東福院坂(とうふくいんざか)
こちらも標柱があった。上った先は新宿通りでさらに200m程北に新宿区歴史博物館がある。
東福院坂(天王坂)
坂の途中にある阿祥山東福院に因んでこう呼ばれた。別名の天王坂は、明治以前の須賀神社が牛頭天王社と称していたためこのあたりが天王横町と呼ばれていたことによる。
その坂と向かい合うように”聖地”があった。「君の名は」の”ロケ地”、須賀神社。
石段の上にも下にも人々が。
なかなかの斜度。標柱は見当たらなかったがこちらが男坂になる。
階段から右にも道は続き、別の石段(女坂)とも連絡する。
坂上ではポーズを取る方が何組もおられた。 映画場面では右奥に六本木ヒルズのようなビルがあるが、北東向きなので逆方向になる。
ズームすると東福院坂。
さらに3段上って須賀神社境内。
七五三の時期だった。
拝殿参拝後にその右の祖霊社にも御参りした。
その先の眺め。奥のタワーは防衛省。
その少し左をズーム。谷に墓地が集まっていた。
拝殿脇から下る女坂はクランク状。
女坂の踊り場から。矩面には石が組まれていた。
須賀神社の文化財、三十六歌仙絵の解説があった。
新宿区指定有形文化財(絵画)
須賀神社の三十六歌仙絵
所在地:新宿区須賀町5番地
指定年月日:昭和61年3月7日
三十六歌仙は、平安時代中期の公卿藤原公任(966~1041)が、過去および同時代の優れた歌人36人を選定したもので、万葉歌人から柿本人麿・山部赤人・大伴家持の3名が、平安時代前期の「古今集」「後撰集」頃の歌人から紀貫之・在原業平・小野小町ら33名が選ばれている。
須賀神社の三十六歌仙絵は、三十六歌仙を一人一枚の絵に仕立てたもので、縦55cm、横37cmの絹地に彩色したものを、額装の上社殿内に掲げている。(昇殿拝観は許可制です)
当時画家として高名だった四谷大番町(大京町)の旗本大岡雲峰(1764~1848)の絵と、和歌や書画で人気を博した公卿千種有功(1797~1854)の書により、天保念(1836)に完成・奉納されたものである。
四谷の総鎮守として信仰を集めた須賀神社の隆盛を物語る文化財のひとつである。
平成3年11月 東京都新宿区教育委員会
本殿の左手には天白稲荷神社。
その脇にも境内への門があった。
そこから100mほど南にも名坂があった。
標柱の解説。
闇坂(くらやみざか)
この坂の左右にある松巌寺と永心寺の樹木が繁り、薄暗い坂であったため、こう呼ばれたという(「御府内備考」)
もはや暗闇ではないが道幅や斜度にその面影は感じられた。奥のビルは聖教新聞社。
下から見上げて。
坂下には公園があった。
周囲からは数m下がって広場がある。ビルの北側にもかかわらず良く育っていた木。
かつての谷頭あたりから。
再びの上りは無名坂?
外苑東通りに出た。信濃町煉瓦館の巨大な建築物があった。
こちらの方のブログによると設計は清水建設で1995年の竣工。
構造躯体にではなさそうだが、煉瓦がふんだんに使われている。
お隣は慶應病院。
つづく。