11月3日、東京文化財ウィーク2016・平成28年度新宿区 文化財現地特別公開の一環で、四ッ谷にあるヴォーリズ設計の教会堂を見学した。
四ッ谷駅の南口を出て迎賓館の方へ向かうと右手に区立四谷中学があり、その先が四谷見附公園。広場の中央にはプラタナスの大木。
その大木の後ろに、道路を挟んで小さな教会堂があった。
シンプルな扉に一般公開中の張り紙。
南側に回っていくと、スロープの先に入口が。
道路の右が四谷見附公園になる。
中は漆喰壁の明るい会堂。内部撮影が許されていた。
いただいた案内によると最初の教会堂は明治36年(1903)、その2年前に来日し布教活動を行っていた米国人のカニングハム宣教師が創設した。
昭和13年(1938)、メレル・ウィリアム・ヴォーリズ(1880~1964)設計により二代目の教会堂が建てられる。昭和19年に空襲に備えて(隣地の学習院校舎の保護のため)取り壊されるも昭和23年に同じ設計図に基づいて再建され、東日本大震災で被災するも平成25年(2013)に当初の形に修復されている。
ヴォーリズとカニングハム宣教師との接点は、両社が近江八幡で出会ったとする説と軽井沢のユニオンチャーチ(教会関係者や外国人の交流場)で出会ったとする2説あるとのこと。
Wikipediaにはウィリアム・メレル・ヴォーリズとあるが、明治38年に24歳で英語教師として米国から来日、その後に近江八幡を拠点に建築活動を行い、明治後期から昭和戦前にかけてミッションスクールや教会堂、住宅、学校、デパート、ホテル、オフィスまで1500件以上の西洋建築を手がけた。
多くは関西だが東京にも他に残る。そのうちのいくつかは訪ねた。
西町インターナショナルスクール(旧松方正熊邸) - 墳丘からの眺め
近江兄弟社の創立者の一人としてメンソレータムを広く日本に普及させた実業家でもあり、日本初の私立の結核療養所「近江療養院」を開設するなど教育・文化活動も幅広く行った。
1941年(昭和16年)に日本に帰化し、華族の一柳末徳子爵の令嬢満喜子夫人の姓をとって一柳米来留(ひとつやなぎ めれる)と名乗っている。
W.M.ヴォーリズ | 一粒社ヴォーリズ建築事務所には 、「その作風は、人を驚かせるかのような建築家の自己主張をよしとせず、建築依頼者の求めに相応しい様式を選択し、その応用と近代的な改善を施すことに努め、住み心地の良い、健康を護るに良い、能率的建物を目指しました」とある。
訪ねた時間ではサティの曲が弾かれていた。
途中で賛美歌に変わった。本が配られたので一応頁は開いた。
十字架のある正面の大窓は当初からのデザイン。奥は四谷見附公園の緑。
左側面の大窓。良く育った棕櫚の緑の光がきれいだった。
建築模型の展示も。
後ろの小部屋への入口アーチ。
毎週日曜日の礼拝時にも門戸は開いているそうだ。
地域の歴史や文化を未来につなぐ 新たな文化財2件を決定:新宿区
教会を出た後に近辺を散策。 教会の南向かいの敷地(写真左手)は学習院初等科。
振り返って奥の左が、東京若葉キリスト教会。
北に向かって裏道を歩いていたら、教会の建物のような医院(佐藤内科小児科医院)があった。
気になる細道も。鉤型に曲って抜けられた。
庇やドア上の小窓が懐かしい感じの玄関。
南に戻って学習院沿いに道を行くと、オテル・ドゥ・ミクニがある。
中で披露宴が催されていた。東京若葉キリスト教会で挙式してこちらで披露宴というケースもあるそうだ。
そこから西へ下る鉄砲坂。
蔦に覆われた建物が坂を盛り立てている。
下から見る鉄砲坂。宅配便の方が大変そうだった。小道ばかりで駐停車できないようだ。
鉄砲坂
江戸時代、このあたりに御持筒組(おもちつつぐみ)屋敷があり、屋敷内に鉄砲稽古場があったためにこう呼ばれるようになった。また、それ以前は、この地に鈴振稲荷(現在は港区赤坂5の1)という稲荷社があったことから、稲荷坂と呼ばれていたという。
鉄砲坂はクランク状に折れ曲がる。ミクニから下って突き当りを右。
少し低くなっているところで左折。右端の標柱にも「鉄砲坂」
突き当たると緩くカーブする”谷底道”があった。
つづく。