前回のつづき。
壺屋やちむん通りは東端が国道330号に突き当たる。
その場所には井戸と大きなガジュマルの木があった。
以下は説明板より。
東(アガリ)ヌカー
アガリヌカーは村ガー(共同井戸)の一つです。「アガリ」は東のことを指す方言で、この井戸は壺屋の東側にあることから、アガリヌカーと呼ばれています。300年程前、村ができて最初に掘られたのがこの井戸だといわれています。
この井戸水は貴重な飲料水として使われていました。戦後、水道が普及するにつれて、井戸を使うことも少なくなりましたが、壺屋の大切な拝所であることは今も変わりません。1998年 那覇市立壺屋焼物博物館
井戸は現役。
国道の対岸には、いかにも南国風のビル。
やちむん通りを再び西へ戻る。と、別の井戸があった。
こちらも現役のようだ。
建物の影のような場所に説明板。
かつて壺屋区役所があった場所だった。
壺屋区役所跡
沖縄戦の後、最初に設置された那覇市の行政庁舎跡。
沖縄戦以前、上之蔵(現那覇市東町)にあった那覇市役所は、1944年(昭和19)の10・10空襲により焼失した。
1945年(昭和20)11月10日、沖縄戦で住民の立入禁止となっていた旧那覇市の一角の壺屋に、陶器・瓦製造のため陶工を中心とした復興先遣隊103名が初めて入り、那覇の復興が始まった。
翌1946年(昭和21)1月3日、人口増加にともない糸満管内壺屋区として区役所が設置され、焼け残った民家を庁舎として行政事務を開始。同年4月4日壺屋区は糸満管内から分離し、那覇市となった。
那覇市役所庁舎は、その後牧志、開南、牧志、天妃へと移り、1965年(昭和40)9月には泉崎へ移転。この間、1950年(昭和25)特別行政区みなと村、1953年(昭和28)首里市、小禄村、1957年(昭和32)真和志市と合併、埋立も行い、那覇市は現在の市域となった。
「ウフガー」という所。
ウフガー
ウフガーは、村ガーの一つです。壺屋の拝みの時には、ここを拝んでから下ヌカーへ行くコース、城岳方向に行くコースの二手に分かれます。
この井戸は、飲料用、洗濯用として使われていました。昔、井戸があった場所は道路となってしまい、現在ではその近くに祠が建てられています。1998年 那覇市立壺屋焼物博物館
塀の裏に、ひっそりと祠が。
やちむん通りの西端は神原大通りで、そこを渡ると牧志となる。巨大なシーサーがあった。
シーサーの後ろの、丸安そばというお店が魅力的だったので入ってみた。
沖縄そば400円。おいしゅうございました。
お腹も満たされたところで、国際市場の方へと思ったが、シーサーの横の案内図にあった「壺屋の路地と石垣」という写真に惹かれたので、もう一度やちむん通り界隈へ戻った(壺屋焼物博物館も未探訪だった)
案内図にあった路地へ。さきほど周囲を2周したのに気づかなかった。
突き当たったこちらの家から三線の音が聞こえた。
ここは気持ちの良い道だった。左へ行ってから右へ戻る。
石垣もいいが生垣もいい。
猫がひょこっと出てきた。
動画も撮ってみました(約30秒)
その先には瓦を埋めたような塀。
工事の箇所があって中を見たら登り窯があった。さきほどの案内図にあった「東ヌ窯」のようだった。
説明板のほうにあった解説。
新垣家住宅・東ヌ窯 国指定重要文化財〈建造物〉
新垣家住宅は、那覇市壺屋に所在する陶工の住宅で、1974年まで陶業を営んでいました。約400坪の屋敷には赤瓦の屋根を連ねた主屋、作業場、離れ、のぼり窯や石造のフール(豚舎)、石垣などが残っています。中心となる主屋は、19世紀後半までに建築されたとみられ、遅くとも明治末年頃までに、現在の屋敷構えが整えられたと考えられます。
のぼり窯は、通称「東の窯(アガリヌカマ)」と呼ばれ、全長約23m、幅約4mで、最上部にある排煙口を除く窯全体が、赤瓦の屋根で覆われています。
きれいに復原された赤瓦の屋根。
調べてみると平成29年度の公開に向けて修復中だそう。
・・・平成28年度には公開・活用の整備を行う予定。その際に窯を使うとのことです。一般公開は平成29年度の予定ですが、実際に住居として使用されているため、限られた箇所と日時が指定されるとのことです。
これは見てみたい。
通り沿いの石垣もよい雰囲気だった。
こちらにも猫。
つづく。