墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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権現堂堤・桜と菜の花(県営権現堂公園) 埼玉県幸手市大字内国府間(うちごうま)

4月10日の日曜日、午後から車でいくつかの古墳を巡りました。

最初に行った古墳の近くに桜で有名な権現堂堤があったので、そちらにも足を伸ばしました。 堤の上1kmにわたって約1000本のソメイヨシノが咲き誇る名所。

花のピークは過ぎていましたが近くの駐車場は満杯。が、他にもいくつかあるなかの一つに停めることができました。

公共交通機関だと東武日光線の幸手駅からバス。駅から徒歩だと30分かかります。

アクセス – 県営権現堂公園

 

駐車場脇には大きな屋台(座敷付き)も。

 

この日までが桜まつりでした。

 

堤の上段、中段、下段と、片側だけで3列並んでいます。 

 

堤の上はところどころで混雑する程度。

 

幸手市の説明板がありました。

市制施行5周年記念 幸手八景

権現堂桜堤

権現堂堤は、昭和初期に廃川となった権現堂川の堤でした。江戸時代には、この堤が切れると江戸まで洪水が及ぶといわれていました。堤の工事が進むようにと自ら川に身を投げて水を静めたという、母娘順礼の姿を刻んだ供養の碑が建っています。

大正年間に桜が植えられ、戦後伐採されましたが、昭和24年に再び植栽されて現在の華やかな姿に育ちました。昭和58年に市指定文化財(名勝)になっています。

そよ風に花びらは舞う順礼の 碑かこむ堤の桜  郷子

幸手市・幸手市教育委員会

 

さらに詳しい説明板。伝説だと思ったら200年ほど前の実話のようでした。

順礼の碑  所在地:幸手市大字内国府間

権現堂堤の上には、順礼供養塔と順礼供養之碑が建てられている。

享和2年(1802)6月、長雨のために水位が高まった利根川はついに決壊し、人々は土手の修復にあたったが、激しい濁流に工事を進めることが出きずに手をこまねていた。その時そこを通りかかった順礼親子がこれを見かねて、自ら人柱を申し出、逆巻く流れに身を投じたという。するとたちまち洪水はおさまり、修復の工事が完成したという。

これに対し、順礼親子が工事は無駄だといったのに怒った人夫たちが親子を川に投げ込んでしまったという説もある。どちらが本当か分からないが、順礼供養塔は、人身御供になった順礼親子を供養するため、昭和8年に建立されたものである。

また、順礼供養之碑には、明治、大正の有名な日本画家結城素明の筆による母子順礼の姿が刻まれている。

昭和63年3月 埼玉県 幸手市

どちらにしても恐ろしい話。 

 

順礼供養之碑

 

堤が切れている部分(立入禁止エリア)では、道が花弁で覆われていました。 

 

時間の関係で堤の中央部分を少し歩いただけ。

 

桜のトンネルが続きます。

 

堤の斜面にも花びらが積もります。

 

ここの見所は菜の花も同時に見られること。

 

思い思いにシートを広げて寛ぐ人々。

 

菜の花越しの桜。

 

満開の木も、幾本か。 

 

菜の花畑の中には一部遊歩道が通っていました。

 

中川を橋でわたります。 

 

そのすぐ上流に調整池がありました。

 

池の岸にも桜並木。

 

30分毎に噴水が上がっていました。

 

噴水を望む展望台は円墳のようでした。

 

権現堂の歴史 – 県営権現堂公園によると、初めて権現堂堤が築かれたのは天正4年(1576年) 

全体が同時期に築堤されたのではなく、庄内川の締め切りや旧渡良瀬川流路締め切り、同年に築堤された権現堂村の堤など段階的に行われた河川の締め切りから、権現堂堤や権現堂川の成立がうかがわれるそうです。

 

ちなみに、このあと行った茨城県猿島郡境町の歴史民俗資料館に「権現堂川」を含めた河川の歴史についての興味深いパネル展示がありました。

江戸時代に「赤堀川」が上流側に開削され、利根川は常陸川に合流して流路を南(東京湾)から東(銚子)へと変えた(ものだと思っていました)

 

しかし実はそれ以前から、この権現堂川を通じて利根川と常陸川はつながっていたというもの。

 それにしても中世のこの辺りの川は都心の地下鉄路線図のよう。

 

「利根川東遷はなかった」という解説。非常に興味をそそられました。

利根川東遷はなかった

近年の研究により、利根川は中世から常陸川に流れていたことが明らかになってきた。天正2(1574)年と推定される北条氏繁書状は、「関宿から利根川を越えて猿島郡に進攻する」と記しており、当時から逆川もしくは常陸川(あるいは両方)を利根川と呼んでいたことが分かる。また、寛政3(1791)年の関宿・横田家の家財録は、利根川の伝承を「往古利根川と唱え、(中略)天正年前に中利根川に疎通と申し伝え候也」と記している。常陸川が中利根川の名称で呼ばれていることからすれば、上利根川の水の大半が常陸川に流入していたものと思われる。そのルートは上利根川―権現堂川―逆川―中利根(常陸)川であったのだろう。

 

いずれにしても、開削して流路のメインルートを「改めた」ことは間違いないので、なにをもって「遷す」というか、でしょうか。

 

逆川 - Wikipediaには、逆川とは「潮位の上昇や合流先河川の増水などによって、水が逆流することがある河川」等とあり、逆川 (幸手市) - Wikipediaには「常陸川と中川水系との分水嶺の微高地を越える水路を開削したものであり、流路はほぼ勾配が無い。現在は水が南方に流れるが、元は水位によっては北方に流れた」とあります。

 

後者のWikipediaにリンクされている国交省関東地方整備局作成の資料「江戸川上流だより」のpdfでは、利根川東遷が図でわかりやすく示されていました。

http://www.ktr.mlit.go.jp/ktr_content/content/000019495.pdf

 

”利根川東遷”は多くの方々がサイト上で深く詳しく図解されているので、興味のある方は直接検索してご覧になることをお勧めします。

 

つづく。