前回のつづき。
施設の見学の後、水再生センターの敷地を一回りしてみることにした。
正門の隣の児童遊園は元は敷地内だったか。
角を曲がって細道をいくと、味のある建物が並んでいた。
その一角には煉瓦塀もあった。
煉瓦で積まれた門柱も。敷地内に鹽竈(しおがま)神社があったようだが見過ごしてしまった。
左のスロープは荒川自然公園へ上がっていく歩道。浄水場の上蓋が公園になっている。
上記の位置は右上。地図は左が北。
重文の施設は右下のテニスコートのさらに右になる。
公園には入らずに、水再生センターの敷地周囲の道を進むと、現在の水再生センターのポンプ場建物が柵越しに見えた。煉瓦タイル貼りが引き継がれている。
その先で隅田川の堤に出た。川面の青が綺麗だった。
対岸にも工場が多くあるようだった。
上流方向。
京成スカイライナーが鉄橋を通っていった。
上記のベルトコンベアー排出口は浚渫土砂ではないことが明示されていた。
水賽銭センターの敷地を反時計回りにさらに進むと、荒川自然公園の北側入口があったので入ってみた。保安のための金網覆いのあるスロープを上っていく。
公園に入ってから、荒川7丁目口に向かう歩道橋。
歩道橋の下は水処理エリアだった。
人工地盤の上の森。
上記の場所から振り返ったところ。足元の方が高くなっている。
公園を出て、都電の荒川2丁目駅に向かって降りていく。
坂下にあった下水処理発祥の地の説明板。
下水処理発祥の地(妻夫塚:めおとづか)
三河島字八千代田、字次郎田前と呼ばれていたこの地に二つの塚があった。妻夫塚と呼ばれるもので、正平7年(1352)、武蔵野合戦における戦死者を葬った所と伝わるが、詳細は不明である。明治43年に三河島処理場の敷地に編入され、現在では正確な塚の位置は確認することができない。日本で最初の本格的な下水処理施設である「三河島処理場」は大正3年、建設に着手した。同年から始まった第一次世界大戦の影響による財政面の制約などの理由から、工事の進行に打撃を受けたが、大正11年(1922)完成した。荒川区のみならず、台東区の全部、文京・豊島区の大部分と千代田・新宿・北区の一部の下水処理を行う。赤煉瓦の処理場施設は建設当時からのもの。千住製絨所(日本羊毛工業)などとともに荒川区の近代化の担い手であった。
荒川区教育委員会
都電荒川二丁目駅。
終点の三ノ輪橋駅は3つ先。
町屋駅で。正面の京成線ではなく、地下鉄千代田線で戻った。