前回のつづき。
あらかわ遊園に来る際に都電の車窓から見えた神社まで歩いてみることにした。
煉瓦塀から小道を東に向かうと大きな質屋さんがあった。
コンクリ塀も味がある。
冬のモジャハウス。
魅惑的なカーブ。
河津桜か。
民家の敷地の社。
その先に小さな商店街があった。
そこにあった見事な暖簾。千羽鶴で作られている。
都電の通る道に出た。
横断歩道にて。
通り沿いに尾久八幡神社がある。
大きな社殿があった。
玉垣の内側は一段高くなっている。
枝垂れる白梅が見ごろだった。
説明板もあった。
八幡神社と八幡堀
八幡神社の創建は不詳であるが、鎌倉時代末期の正和元年(1312)に、尾久の地が鎌倉の鶴岡八幡宮に寄進された頃に遡ると考えられる。また、神社に残る棟札から、至徳2年(1385)には社殿が再建されたことが確認できる。江戸時代に幕府が編纂した地誌「新編武蔵風土記稿」(文政11年・1828成立)には、上・下尾久、船方三村の鎮守と記されている。
八幡掘は、王子・上中里・田畑・日暮里と流れる用水が八幡神社をとり囲んでいたもので、酒井新三郎抱屋敷と亀太郎屋敷との間(現在の西尾久3~4周辺)を経て、荒川(現在の隅田川)に注いでいた。川を往復する船が八幡堀まで進み、交易で賑い、神社の西側では下肥の積みおろしも行っていたという。荒川区教育委員会
説明板はもう一枚。
八幡神社と上尾久村村絵図
所蔵の上尾久村村絵図(荒川区指定文化財)は神社を中心とする上尾久村の江戸時代の様子を物語る。図中には、農業用水の流路、7名の領主名と各領主付農民、村内の寺社などが記され、隣村の田端村や中里村との間で取り決められた用水に関する記述が3ヶ所ある。制作年代は記されていないが、嘉永元年(1848)以後のものであると推定される。このほか同社には、享保14年(1729)銘の手水鉢や南北朝期の至徳2年(1385)銘をはじめとする棟札等がある。同社の創建年代は不詳だが、棟札の年号等から中世には当地の鎮守として勧請されていたと考えられる。荒川区教育委員会
拝殿の左手には厳島神社。
神社の前の都電駅は「宮ノ前」
確かに写真に夢中になると危ない。
都電で町屋に出て次の目的地へ向かった。
つづく。