前回のつづき。
この日は六義園から旧古河庭園へと庭園のはしごをした。
駒込駅から徒歩12分。上中里駅や西ヶ原駅からだと徒歩7分で正門。
旧古河庭園は国の名勝に指定されている。面積は30,780㎡なので東京ドームの屋根膜ぐらい。一般150円で年末年始以外は公開している。
庭園の解説は敷地の中の案内図の方が詳しかった。
庭園の案内
この庭園の敷地は、もとは明治の元勲陸奥宗光の別宅でした。その後古河家が譲り受け、三代目当主の古河虎之助が大正3年頃に従来の敷地は本宅用地とし、新たに隣接地を買収して、庭園としたのが始まりです。
時を経て、国に所有権が移り、地元の要望などを取り入れて東京都が整備したのち昭和31年4月から公開しました。
この庭園の特徴は、武蔵野台地の南斜面という地形を活かし、この高台にゴシック様式の洋館を配しそのまわりと前面の斜面は明るい洋風庭園とし、連続する低地には池泉を中心とした和風庭園をつくり、これらを一体としたことにあります。
設計にあたっては、鹿鳴館や、ニコライ聖堂などを手掛けた英国人ジョサイア・コンドル(1852~1920)が洋館並びに洋風庭園を受け持ちました。
また、和風庭園は、京都の平安神宮や無隣庵を作庭したことで知られる京都の著名な庭師、植治こと小川治兵衛(1860~1933)の手によるもので、地形を活かした日本の伝統的な庭園を見事に造りあげています。
当庭園は、大正期の原型を留める貴重なもので、昭和57年8月4日に東京都文化財として指定され今日に至っていましたが、近代の庭園の中でも極めて良好に保存され、和洋の見事な調和を実現している秀逸で代表的な庭園として、平成18年1月26日、国の名勝に指定されました。
ジョサイア・コンドル設計による洋館は(財)大谷美術館が管理していて、事前申し込みにより有料で公開している。空きがあれば当日でも参加できるが、この日は結婚式が行なわれていて入れなかった。
洋館の車寄せ、玄関の扉。
以下は東京都公園協会の公式サイト、見どころ | 旧古河庭園 | 庭園へ行こう。より。
ジョサイア・コンドル最晩年の作で、大正6年5月に竣工しました。躯体は煉瓦造、外壁は真鶴産の新小松石(安山岩)の野面積で覆われ、屋根は天然ストレート葺き、地上2階・地下1階となっています。
大正12年9月1日に発生した関東大震災では約2千人の避難者を収容し、虎之助夫妻が引き払った大正15年7月以降は貴賓の為の別邸となりました。昭和14年頃には後 に南京政府を樹立する国民党の汪兆銘が滞在し、戦争末期には九州九師団の将校宿舎として接収され、また戦後は英国大使館付き武官の宿舎として利用されました。(東京公園文庫「旧古河庭園」より)
外壁の石の「黒」に窓枠の「白」が映える。珍しい色の石で、下記に採石場の写真もあるが現在は採掘されていない。最初から黒かったのだろうか。
側面側の庭園のマリーゴールドの黄色も際立って見えた。
南側正面。左側の方が出窓のようなつくりになっていて微妙に左右対称ではない。
前庭のバラは咲き始め。
咲いた花には、カメラを向ける人が入れ替わり状態。
2つ目の階段を降りたところから。堂々と聳え立っていた。
3連の煙突?
その先、庭園の木々の中から。
公式サイトの園内案内図 | 旧古河庭園 | 庭園へ行こう。
六義園の3分の1強の面積だが高低差があり木々が繁っていて、同じくらいに広く感じられた。
上記のツツジ園のあたり。「黒ボク石積」という富士山の溶岩を組んだもの。
さらに下ると池が見えてきた。
大きな一枚岩が喰い違いに並べられた橋。六義園にもあったタイプ。
園内にはさまざまな形の灯籠が設置されていた。下記は「濡鷺型(ぬれさぎがた)」
こちらの奥は十五層塔。巨大な石は深山渓谷の雰囲気をよく現していた。
心字池の傍にあった雪見灯籠は四足の大きなタイプ。
この庭園も紅葉が美しそう。
南東角には古河ガーデンマンションが立つ。かつての敷地内か。
住人は毎日庭園と洋館を眺めることが出来る。
公園の一角の茶室。お茶会が催されていた。
「大滝」は、結構な落差があった。
その横を東屋に向かって登っていく。
東屋の標高は洋館と同じ。台地の端であることが実感できた。
東屋から南方向。木々の向こうに池が見える。
再び洋館を観察。バルコニーのある屋根裏部屋が楽しそう。
東面から。次の機会で内部の見学をしたい。
丁寧に刈り込まれた芝生は見ていて気持ちよかった。
庭園を一回りして、まだ少し時間があったので、飛鳥山の渋沢資料館にも行って見ることにした。
つづく。