前回のつづき。
東洋文庫ミュージアムを見たあと、まだ時間があったので本郷通りを北上して古河庭園に向かうことにした(庭園内は次回エントリで)
その後に王子まで歩いたので、そのときの界隈の写真を。
このあたり、京浜東北線がその崖下に沿ってを通る「山手台地の崖線」の西側、つまり台地の上だが、かつては谷田川(旧石神井川)が不忍池まで流れていた痕跡が残っており、結構な高低差があって面白かった。
駒込駅から北方向へ本郷通りは下り坂になる。通り沿いの地蔵様?
上記の信号は渡らずに、その背面の小路に惹かれてそちらの方へ。
途中階段を降りて駐車場を過ぎると妙義神社があった。
「新編武蔵風土記稿(1828年)」によれば日本武尊が建立し太田道灌も参詣したという。
社殿の右側に寛永19年に造られた庚申塔があった。
豊島区の説明板。
何とか「寛永十九」の文字を写せた。
神社の横はちょっとした広場になっていた。台地の端&古い神社とくれば、かつては古墳があったかも、と想像を逞しくした。
神社の裏には教会・神学校があった。かすかにコーラスが聞こえていた。
坂道を下っていくと銭湯が。
その入口は本郷通りに面していた。
バスを待つような雰囲気で銭湯が開くのを待っている方がいらした。
その先には賑わいのある商店街への入口があった。ゆるいカーブを描く道は、かつての谷田川の流路に沿っているように思われる。
しっかりした公式サイトがある。
商店街へ入って、細い道を少し歩くと道幅が拡がった。
上記のあたりで北に方向を変えて住宅街を進むと古河庭園の南縁の白壁が見えてきた。
右折して壁沿いに歩くと閉鎖された門があった。
後で入園してから撮った門の内側。
門の外側は児童遊園。
再び本郷通りに出て、古河庭園の石垣を左手に見ながら坂道を登った。
庭園内は次回に。
その先の通り沿いに中世欧州風?の城郭都市が壁に書かれた木造家屋があった。
左折すると趣のある小道があった。石塔には「阿弥陀三番目 西箇原 無量寺」とあった。
先は階段になっていた。途中左から「小さな庭」が道にはみ出していた。右側は無量寺境内。
左に回っていくと古河庭園の西側の坂道に出た。写真奥に向かって下っている。
坂上に戻っていくと、道沿いに石室石材のような緑泥片岩が置かれていた。
木造家屋の位置へ戻ると、道を隔てて平塚神社があった。
以下は神社の公式サイトの「略縁起」から。
平塚神社の創立は平安後期元永年中といわれています。八幡太郎源義家公が奥州征伐の凱旋途中にこの地を訪れ領主の豊島太郎近義に鎧一領を下賜されました。近義は拝領した鎧を清浄な地に埋め塚を築き自分の城の鎮守としました。塚は甲冑塚とよばれ、高さがないために平塚ともよばれました。さらに近義は社殿を建てて義家・義綱・義光の三兄弟を平塚三所大明神として祀り一族の繁栄を願いました。
徳川の時代に、平塚郷の無官の盲者であった山川城官貞久は平塚明神に出世祈願をして江戸へ出たところ検校という高い地位を得、将軍徳川家光の近習となり立身出世を果たしました。その後家光が病に倒れた際も山川城官は平塚明神に家光の病気平癒を祈願しました。将軍の病気はたちどころに快癒し、神恩に感謝した山川城官は平塚明神社を修復しました。家光も五十石の朱印地を平塚明神に寄進し、自らもたびたび参詣に訪れました。
駐車場として使われている細くて長い参道を進む。
北端に社殿があった。
社殿の後ろは山手台地の端だと思っていたが、なんと「甲冑塚古墳」が存在していることをあとから知った・・・
再訪せよとのことでしょう。
境内にあった「平塚城伝承地」の解説板。
この場所は平安時代に豊島郡の郡衙があったと推定され、平安末期には「平塚城」という城館があったという伝承がある。鎌倉・室町期には地域の領主豊島家代々の居城となったが、1478年に太田道灌が攻め落としている。
現地できちんと読んでいれば「塚」の話で気づいたかも・・・
社殿の東側には上中里駅へ向かう切り通しの道がある。
境内の西側、滝野川体育館の北側では大きな工事が行なわれていた。
関東地方整備局による西ヶ原研修合同庁舎(仮称)の建築工事だった。
体育館隣の滝野川公園では「第32回ふるさと北区 区民まつり」が開催中。演歌が響いていた。
公園と病院を挟んで隣合う国立印刷局東京工場でも、大規模な建替え工事が進捗していた。
印刷局の先、滝野川警察署の隣には「一里塚」があった。
なんと国指定の史跡だった。
国指定史跡(大正11年3月8日指定)
西ヶ原一里塚
北区西ヶ原2-13・4先
慶長9年(1604)2月、江戸幕府は、江戸日本橋を基点として全国の主要街道に一里塚を築き、街道の道程を示す目約とすることを命じました。
西ヶ原一里塚は、本郷追分の次の一里塚で、日本橋から数えると日光御成道は現在の本郷通りが主要なルートにあたりますが、岩淵宿から船で川口宿に渡ると鳩ヶ谷・大門・岩槻の各宿場を北上して幸手宿で日光街道に合流しました。将軍が日光東照宮に社参する際の専用街道として使用されたので、この名称が定着しましたが、岩槻藩主の参勤交代や藩の公用通行路に使われたので岩槻街道とも称されました。
旧道をはさんで一対の塚が現存していますが、これは旧位置に保存されている都内の一里塚として貴重な文化財です。車道の中に位置する方の塚には「二本榎保存之碑」と題される大正5年6月の記念碑があります。西ヶ原一里塚は当時、東京市電の軌道延長路線上に位置したため、この工事に伴う道路改修工事で撤去されそうになりました。碑には、こうした経緯と、渋沢栄一や東京市長・滝野川町長を中心とする地元住民の運動によって保存に成功したことが刻まれています。西ヶ原一里塚は、大正時代に文化人と住民が一体となって文化財の保存に成功した例としても記念碑的な意義をもつものといえます。
平成7年3月 東京都北区教育委員会
本郷通りの中央にも幅広の分離帯が設けられていたが、これも一里塚の遺構だった。
調べていたら、さまざまな街道の一里塚を調べて写真に残している方のブログがあった。「全部やる」のは偉業。「かなり」と「全部」との間には雲泥の差があると思います。
つづく。