前回のつづきの逗子からの帰り。
ここまで来たついでに円覚寺に立ち寄った。
鎌倉は何度も訪れたことがあり、電車から見える山門がいつも気になっていたが、北鎌倉駅で下車するのは初めて。
15両の長い横須賀線が停まるが、出入口は鎌倉駅よりの端っこにある。
線路に沿って歩き出すともう円覚寺。
参道を線路が横切っていて石段の前に踏み切りがある。車窓参拝もできそう。
横須賀線は、日本海軍の軍港・横須賀への兵員・物資輸送を目的にのために1889年(明治22年)に開業したが、強行な用地買収もあったようだ。
大勢の人で賑わっていた(11/16)
臨済宗円覚寺派の大本山、円覚寺(えんがくじ)
鎌倉五山のひとつで、建長寺に次ぐ第二位の格を持つ。
1282年(弘安5年)に鎌倉幕府執権の北条時宗が、元寇の戦没者を弔うため中国僧の無学祖元を招いて創建、鎌倉時代を通じて北条氏に保護された。
元寇で戦死した日本の武士と元軍の戦士は、分け隔てなく供養されているそうだ(Wikipediaより)
円覚寺は境内、庭園ともに国の史跡に指定されている。
総門前の石段(上の写真)の紅葉。
樹冠の外側が赤く染まりはじめているが、中はまだ緑。記念写真を撮る人多数で、上の方しか写せなかった。
拝観料300円を納めて中へ。石段を上がると巨大な山門が現れる。
・山門(三門) 神奈川県重要文化財
1785年(天明5年)に建立(再建)
楼上には十一面観音像、十二神将、十六羅漢が祀られていて毎年6月18日に楼上で「観音懺法(せんぽう)」が行われるそうだ。
夏目漱石の「門」に描かれる。
門をくぐる際には、目線の位置に太い柱や貫の直線が迫る。通常は左右のこの位置に阿吽の像があったりするが何もない空間。遠目には頭上の大きな構造物が浮いているようにも感じられるのでは。
見上げると貫にも飾りが施されていた。
山門の先には大きな仏殿。
1923年(大正12年)の関東大震災で倒壊したが、1964年(昭和39年)に再建された。コンクリート造りだが、1573年(元亀4年)の設計図に基づいている。
本尊の宝冠釈迦如来像は高さ260cmの大迫力の坐像で、端正な顔立ちの頭部のみが鎌倉時代の作だそうだ。作者はさっと検索しただけではわからなかったが、運慶・快慶の代表作の一つ東大寺南大門仁王像が1203年、当寺の開山が1282年なので、その流れをひく慶派の仏師だろうか。
間近で拝むことができるが、写真を撮りそびれてしまった。
参道はさらに奥へと続く。こんなに深い谷戸になっていたとは車窓からだけでは想像がつかなかった。一番奥は線路から400mくらいの直線距離になる。
虎頭岩(ことうがん)のある妙香池(みょうこうち)
中央やや左の水際の岩が、左を向いた虎の顔のようですが・・・
そして、妙香池の後ろに円覚寺舎利殿が、と門から中に入れない。
正月の三が日、5月の連休日、11月の宝物風入(11/3を含めた3日間)のとき以外は「修行のため」の拝観制限があった。
この場所に来るまでは間近で見られると期待を膨らませていたので肩を落とした。
2週間早く来ていれば・・・。再訪せよとのことですね。
奥の門の向こうに屋根だけ拝むことができました。
鎌倉で唯一の国宝建造物。お寺の説明板より下記に転載。
「舎利殿 国宝
円覚寺の舎利殿には「佛牙舎利」と尊崇されるお釈迦様の歯牙をおまつりしております。その由来は将軍源実朝公が宋の時代、中国能仁寺から請来したものです。この舎利殿は鎌倉にあった太平寺(尼寺廃寺)の佛殿(鎌倉時代末~室町初期に再建)を移築したもので、中国、南宋時代の建築様式に学んだ禅宗様建築の代表的な遺構です。関東大震災に倒壊しましたが、昭和4年に復元しました。
内部正面に佛舎利をおまつりする宮殿が安置され、その前に鎌倉彫りの須弥壇があり、観音菩薩と地蔵菩薩がまつられています。隣は円覚寺派の厳格なる修行道場となっており、円覚寺開山 無学祖元禅師をおまつりした開山堂とともに円覚寺随一の幽邃(ゆうすい)の地となっています。・・・以下拝観制限の説明」