前々回からのつづき。
加地邸からの帰り道、せっかく逗子に来たので、昨年夏に訪れた長柄桜山(ながえさくらやま)古墳群に挨拶に伺った。
(後で、前回一緒に行った小4の息子に、おんなじ所に行ったんだ、とあきれられた)
新逗子駅入口停留所でバスを降りて、もときた道を少し戻り田越橋を右折して400mほど歩いて逗子市郷土資料館へ。複数の行き方があるが、この日は蘆花記念公園を通って行った。
関所のような公園の門を抜ける。
つづら折のスロープを上がっていく。
すると木戸があって郷土資料館に着く。
こちらは前回立ち寄ったので館内には入らず、敷地内を通り抜ける。
裏手の、ガラスがきれいに磨かれた書庫(?)の横を行く。
ここからは急に登山道のようになる。息が切れる。
最後の上り。この先で前方部の下に出る。
山頂=墳丘に到達。前方部からの見事な眺め。正面は江ノ島。富士山は隠れていた。
標高は120mほどになる。
長柄桜山古墳群は2基の前方後円墳から成る。市のHP(下記)より少し抜粋。
古墳の発見は「つい最近の平成11年3月」で、現1号墳付近で携帯電話の中継基地建設工事が行われようとした際、地元葉山町の東家洋之助氏が埴輪片を見つけたことがきっかけとなった。
さらに翌月に県内の考古学研究者が現2号墳の存在を指摘し、調査の結果古墳と判明した。
長柄桜山古墳群の発見前は、三浦半島に前期古墳はないものを思われていたが、墳丘のある丘陵の北を東西に流れる田越川沿岸には、弥生~古墳時代前期の遺跡が点々と確認されていた。
下図は上記逗子市HPより。古墳のある尾根、田越川、点在する遺跡、横須賀線のカーブが並行している。
市のHPでは、古東海道のルートについても下記のように触れている。
「奈良時代以前の古東海道については、『古事記』『日本書紀』に記載されたヤマトタケルの東征説話を根拠にその復元的研究が進められています。説話自体の史実性は薄いですが、そのルートは当時の実際の交通路をある程度反映したものと思われ、概ね現在の横須賀市走水付近から東京湾を渡海したと考えられています。半島内のルートについてはさまざまな想定が可能ですが、地形あるいは遺跡分布の点からみて、田越川流域を遡上して東京湾側へ到るルートは相模湾と東京湾を結ぶ重要な交通路であったと考えられます」
ルート上の走水神社は3月に訪問し、対岸の千葉を確認した。
千葉側の富津市や木更津市には140mを超える大古墳(跡)が存在する。
古墳はルートのランドマークであり、ルート形成には「海の民」が関与していた、という考古学の広瀬和雄先生の説には素人ながら強く共感します。
以上のことを思いながら2号墳の前方部上に佇んだ。
・長柄桜山古墳群 2号墳 前方後円墳 全長88m
小規模な調査しか行われていないので埋葬施設の位置等は不明だが、墳丘の裾を地山から削り出して成形したことや、葺石が確認されている。円筒埴輪・壺形埴輪片が出土したので、かつては墳丘上にそれらが並べられていたようだ。
下は前方部から後円部。
こちらは後円部から前方部。
後円部の下の標柱。
標柱のそばには実測図つきの説明版もある。
1号墳への小道。450m、尾根沿いに歩く。
・長柄桜山古墳群 1号墳 前方後円墳 全長90m
こちらも山を削って造られ、その上に1.5m盛り土されている。
2号墳と同じく周辺からは円筒埴輪・壷形埴輪片が出土している。
2号墳と異なる点は葺石が見られないこと。
また、こちらでは「後世の掘削痕跡が認められない」つまり未盗掘と考えられる粘土槨(埋葬部分・主体部)の存在が確認されている。
2号墳との最も大きな違いは、こちらは墳丘に上がれないこと。
下は前方部の裾からの写真。
前方部の左裾からくびれ部を経て後円部の写真(後でみたら前回も同じアングルで撮っていた)
くびれ部のあたり。
後円部の下に実測図つきの説明板があった。
後円部から東側の眺め。下に落ち込んでおり、こちら側も遠くを見渡せ、木々がなければ下からも目立ったろう。この先の台地下の田越川沿岸に、遺跡や古墳が点在する。
穏やかで暖かい陽射しがあり、自分の他に単独散歩の男性3人、親子連れ1組にお会いした。このような場所が近所にあるのは羨ましい。