墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

湯浅八郎記念館・常設展示 @ICU 国際基督教大学

前回のつづき。

ICU 湯浅八郎記念館は国際基督教大学敷地の北側にある。

 

森の緑に外装タイルの煉瓦色が映える。

 

月曜のほかに日・祝も休館日。入館無料。

http://subsites.icu.ac.jp/yuasa_museum/information.html

 

エントランスホールの様子。

故湯浅八郎博士はICUの初代学長で、博物館は大学創設・育成に対する博士の貢献を記念して1982年に開館した。

 

収蔵品は湯浅博士によって蒐集され寄贈された、全国各地の民芸品や美術品、歴史資料の数々。

 

さらになんと、ICUには大学構内遺跡が散在していて、そこから出土した先土器時代から縄文時代にかけての考古遺物が展示されていた。2階の階段上から。

 

敷石住居は縄文中期に作られた特殊な竪穴住居。
集落の中でも祭祀などに関わる特殊な家であったと考えられるそうだ。

 

野川に沿って遺跡が連綿と並ぶ。右の白いところがICUキャンパス。

オレンジの濃いところが国分寺崖線の上の武蔵野段丘面、薄いところは下の立川段丘面の遺跡。

 

その説明板。

野川上流に沿った遺跡群
野川は、国分寺市恋ヶ窪に源を発し、国分寺崖線下辺の湧水を集めて、二子玉川多摩川に合流する全長約20kmの河川である。崖線を境に高い方を武蔵野段丘面、低い方を立川段丘面と呼ぶ。武蔵野段丘面と、かつて多摩川の河床であった立川段丘面の間には約20mの標高差がある。先史時代の遺跡群は両段丘面上に分布しており、崖下に点在する湧水と密接に結びついている。
先史時代の人々は、約3万年前にこの付近に住みついた。この地域から出土する先土器時代と縄文時代の多くの黒曜石は、箱根および信州の山岳地帯から運ばれて来たもので、当時の人々の広範な行動領域を示している。人口は縄文中期にピークに達し、多くの小集落が形成された。ICU考古学研究センターは関係調査期間と協力して、ICU構内、野川、平代坂、武蔵野公園、西之台、中山谷、前原、新橋、荒牧、はけうえなどの諸遺跡の発掘調査を行った。

 

こちらがICU構内の遺跡分布図。遺跡の中に大学はあった。国分寺崖線の上側では先土器時代、縄文中期・後期の、下側では縄文早期・前期の遺跡が集中的に発見されているそうだ。多摩川の流れの変化とともに、最初は上にいて、いったん下りてまた上がったということか。

 

見事な縄文土器が盛り沢山。 

 

第7地点の2号竪穴住居址からは勝坂式と呼ばれる土器(縄文中期前半)の破片が多く出土。

 

岡本太郎的な意匠。

 

”現代的”な文様に思える。

 

これも勝坂式。

 

 ICU第4地点出土の加曽利E式土器(縄文中期)

 

こちらも加曽利E式土器。具象なのか抽象なのか。

 

人のようなタコのようなヒトデのような。

 

人面状装飾の付いた土器片(阿玉台式:縄文中期)とあった。上向きの顔?

 

縄文時代の編年と人口分布を示す興味深いパネルも。

左から、早期(BC7500~)、前期(BC5000~)、中期(BC3500~)、後期(BC2400~)、晩期(BC1000~)で、濃い青が高密度、グレイが中密度地帯。

その解説文によれば、縄文前期に温暖化で海面が上昇し九州と四国が島になり、中期には植物(木の実)が豊富になって人口が急増、後期には気候変化で生活の場が山から海部に移って漁労中心の生活になり、晩期には人々は北へ移住し人口は減少した、とのこと。

基本的に春は新芽や若葉の採取、春から夏は魚貝類の捕獲、秋は木の実やイモ類の収穫、冬は狩猟によって食料を得ていたようだ。

 

以前読んだこちらの本では、縄文早期で総人口2万人、中期で26万人、晩期で8万人とあった。