墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

出山横穴墓群第8号墓 東京都三鷹市大沢

前回のつづき。

ICUにて泰山荘や博物館を見学した後、まだ時間に余裕があったのでマップで近隣を見ていたら、徒歩20分ほど南に「大沢の里古民家」があったので行って見ることにした。

 

路線バスがあり停留所へ向かうと「あと5分で到着」と電光掲示があったので水を買いに横のコンビニへ走り、レジから外を見るとちょうどバスが。あいにく小銭が無く、千円札でお釣りをもらっているうちに行ってしまった。バス停の表示を見てから2分後くらいだったが、5分後の次のカウントは0分後になるのだろうか。

バスはその先で大通りを右折しようとしていたので、走れば次のバス停で間に追いつくかと思い試みたが、自分の信号待ちの目の前で行ってしまった。

実際は徒歩15分ほどの距離だったので最初から歩けばよかっただけですが・・・

 

と、せんないことをくよくよ考えていると目的地に着たが、そこには工事中の看板があり、半年がかりの工事は2週間後の完成と書かれていた。

がっかり。 

 

せめて建物の外観をと回りこんでいったが、よくわからない。

 

迷っていたら、なんと古墳(横穴墓)への自然観察路入口があった!

ピンチ(?)の後にはチャンスあり。行きたい所リストから漏れていた場所でした。

 

門の横にあった説明板。

東京都指定史跡 出山横穴墓群(でやまおうけつぼぐん)第八号墓
所在地:三鷹市大沢2-1097-1
指定:平成6年3月22日
三鷹市から国分寺市の地域は、東京都内でも横穴墓が数多く存在している地域です。三鷹市南西部には国分寺崖線およびその開折谷の一部に6群50基ほどの横穴墓が確認されています。本横穴群もこの6群中の一つで、野川左岸の浅い谷に面した国分寺崖線の西側斜面上部に占地しており、10基の横穴墓が確認されています。
第八号墓は、平成5年(1993)に三鷹市教育委員会によって確認調査が実施され、大型の石を入口部にアーチ状に積み上げるという特徴を持つ横穴墓であることが明らかにされた。第八号墓は、墓前域、石積み構造の羨門、羨道、前・後室の玄室からなります。玄室には礫が敷き詰められ、4体の人骨が確認されました。7世紀中頃の須恵器の平瓶も出土しています。
羨門部の大型の川原石をアーチ状に石積みした入口構造は珍しいもので、その中を川原石の礫で閉塞しています。玄室の残りも良く、人骨も良好な遺存状態であったことなどから、保存して公開する施設となりました。
平成22年3月建設 東京都教育委員会

 

ヤマカガシ注意報発令中(4~11月でピークは夏みたいです)

 

足元と上下左右を確かめながら、おそるおそる進む。

 

竹薮の斜面に階段が。 

 

上の方に展示施設らしきものが見えた。 

 

入口付近。

 

コンクリ製の頑丈な展示施設だった。

 

タイル形式の説明板。 

・横穴墓とは何か
古墳時代の後半(5世紀終わり頃)から、奈良・平安時代までにtくられた墓で、南九州から東北南部に分布します。丘陵の斜面や崖を横に掘って、その中に遺体を埋葬するもので、ふつう数多くの墓がまとまり、横穴墓群とよばれています。

 

・8号墓の特徴
墓の入口である羨門はアーチ状の石組みで丈夫につくられています。内部は細い羨道と遺体が置かれた玄室とに分かれ、石が敷かれています。天井もアーチ形で、掘り道具の刃の跡がはっきり残っています。

玄室とは、前室と後室に区切られています。4体の遺骨が埋葬されていて、40代と30代の男性、20代の女性、8歳の小児だとわかりmさいた。
墓前域では平瓶という形の須恵器が発見されました。この器は7世紀に焼かれたもので、墓がつくられたのも同じころと考えられます。

 

・羨門を開いた時のようすです。入口は126個もの石を詰め込んで閉じられていました。

 

・玄室内の4体の埋葬人骨です。一度ではなく、次々に埋葬されたと考えられます。これを追葬といいます。

 

・玄室のアーチ形天井です。掘り道具の刃の跡がすじ状に残っています。鉄製の刃を備えた切れ味の良い道具で掘ったと考えられます。
平成8年3月 三鷹市教育委員会

 

見学時間が限られていてぎりぎり間に合った形。ここは間に合って幸運。

9:30~16:00で、火曜日(と年末年始)が閉館。

 

入口前のテラス。斜面の急さがわかる。

 

ドアを開けて施設の中に。

 

ガラスの向こうに玄室入口が。

 

石積みが美しい。

 

ズームで。一瞬たじろぐが骨はレプリカ。

 

須恵器(平瓶)が復元展示されている。

須恵器
現在、見学室にある墓前域は土が厚く堆積していました。土の中から須恵器と呼ばれる焼物の破片が6点発見され、復元すると平瓶(へいへい)という形の器(7世紀)になりました。
平瓶は日常生活用ではなく、埋葬や供養の儀式に用いられる器と考えられています。横穴墓では儀式用の器が、一部を壊された状態で発見されることが多くあり、この平瓶も首の部分は発見されていません。
須恵器の発見によって、8号墓がつくられたのも7世紀頃と考えられます。なお、展示品は復元模型です。

 

スピーカーの解説を聞いていると別の見学者が来た。長い解説を聴いている間に出て行かれた。

 

斜面の上側から見た展示施設。

 

その上には縄文後期の住居遺跡があった(三鷹市出山遺跡第一号住居跡)

 

斜面を上りきった先の風景。

 

振り返っての観察路。

 

西側へ続く別の道。

 

下りていった先で、さきほどの見学者の方と再会。「大沢の里古民家」の場所を伺うと、民家の後ろにあることを教えて頂けて遠望できた。これも幸運。

 

11月3日にリニューアルオープン。明治期の農家の母屋だが、当主だった箕輪家は江戸時代から大沢の湧水を生かして代々わさび田を営んできたのだそう。

http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyo/list/201805/CK2018052702000109.html

 

その南側を流れる野川。川面のあたりには太古の雰囲気があるような。

 

野川から見た国分寺崖線。正面あたりの崖斜面に横穴墓がある。