雄島古墳見学後は、周防大橋を渡って椹野川(ふしのがわ)河口部の右岸へ。
残り時間が少なくなってきたので、大浦古墳群や丸塚古墳群は次の機会として、岬の先端にある古墳を行き先に選んだ。
グーグルマップの誘導で狭い路地に入り込んでしまい、撤退しようと思った矢先に縄文遺跡の広場に出た。
海の手前のちょっとした広場。
説明板もある。
月崎遺跡
宇部市大字東岐沙字月崎
月崎遺跡は縄文時代前期から晩期(今から約9千年から2千3百年前)にかけての長期間にわたり、湾岸砂丘上に営まれた集落跡です。
昭和31年に偶然発見され、昭和36・37年に発掘調査が行われました。
調査では縄文土器・焼石。木炭が集中した炉跡のようなものや竪穴式住居の柱穴が出土し、住居や生活場所の存在が確認されました。
土器については、熊本県轟貝塚・曽畑貝塚出土土器の形式をもつ前期の土器、岡山県船元貝塚の形式をもつ中期の土器、また岡山県中津貝塚・福田貝塚、福岡県鐘ヶ崎貝塚、熊本県西平貝塚の形式をもつ後期の土器などが出土しました。
また石器類として石錘・土錘(漁網用のおもり)が多数出土しました。海岸沿いであることから漁労中心の生活を送っていたものと思われます。ほかには石鏃、石錐、石匙(ナイフ)、石斧、すり石などがあり、日の山で木の実や小動物類を採取。捕獲していたのでしょう。
なお、石鏃などの石材には周防灘に浮かぶ大分県姫島産の黒曜石が多く用いられていました。姫島までは約40㎞と近く、海を渡って直接原石を手にしていたものと考えられます。
このように、月崎遺跡は九州と瀬戸内両地域の土器文化の接点ともいえる場所であり、月崎遺跡を含む周防灘沿岸の遺跡は姫島産黒曜石の供給を通して九州と瀬戸内の文化交流を促す役割を果たしていたことが考えられます。
周辺の縄文時代の遺跡には、月崎岬遺跡・花園遺跡(東岐波)、長桝遺跡(西岐波)、常盤池遺跡、山口市美濃ヶ浜遺跡、秋穂町赤崎遺跡などがあります。
郷土の歴史を知る上でも、また楽術的にも貴重な遺跡ですので保存にあたってのご協力をお願いします。
平成12年3月 宇部市教育委員会
古墳へのアプローチは分からずに再び諦めかけていたが、あらためて落ち着いてグーグルマップの「月崎岬古墳」のクチコミ欄をみると、「ここまで直接行ける道はなくキワ・ラ・ビーチの駐車場に車を止め砂浜を400mくらい歩く必要があり」「砂浜を山の方を見ながら歩いていると案内板が見えるのでそこからさらに20mくらい歩くとたどり着きます」との情報があることに気がついた。
さっそくビーチへ。
ビーチ右側。この先がキワ・ラ・ビーチ。そこには若宮古墳群もある。
ちなみに宇部空港から車で15分ほど。
左側。この先に月崎岬古墳が。
左側に注意しながら歩いていくと、ありました!
史跡・月崎岬古墳入口の標柱。(コメントを書かれた田代健人さんに感謝)
少し上ると複数の埋葬施設と説明板のある、明るい広場に出た。
詳しい説明板。盛土が流出した横穴式石室が3基とのこと。
月崎岬古墳群 月崎岬遺跡
宇部市大字東岐波字月崎
日の山東南山麓から突き出た月崎岬には二種類の遺跡があります。岬の先端に近いこの丘陵上には三基の横穴式石室墳がありますが、これらはすでに封土(盛土)が流出し、石室が露出した状態になっています。この説明板に近い2号墳は奥壁と両側壁、天井石の一部が残るのみですが、最近の発掘調査により、石室の周辺から多数の土器を検出しました。ほとんどが須恵器片で坏(身・蓋)・高坏・短頸壺・はそう・甕のほかに、土師器の坏・壺や滑石製紡錘車などが出土しました。石室は南東に開口し、遺体を安置した玄室に当たる部分は長さ約1.5m、幅約1mでその床面には多数の小円礫が5㎝の厚さで敷き詰められていました。その横の3号墳は未調査ですが、石室には石材も比較的良く残っており、大きさは長さ約4.5m、幅約1.7mで西南に開口しています。
これらの古墳の時期は出土した遺物から古墳時代後期(6世紀末~7世紀初め)頃と考えられます。この西側にある若宮古墳群とほぼ同時期です。
また、ここから岬の東側を海沿いに約百m進むと、崖の上に一基の箱式石棺があります。これもすでに封土はなく石室が露出しています。この古墳の時期は横穴式石室古墳群よりややさかのぼるものと考えられます。これらを含めて月崎岬古墳群と呼んでいます。
一方、岬の先端部西側の海岸線付近には縄文時代後期の遺物を含んだ砂まじりの土層が厚さ30~50㎝長さ約20mにわたってあります。ここが月崎岬遺跡で、出土遺物は縄文式土器片と海浜からは石錘(漁業用のおもり)が12個採取されました。
郷土の歴史を知るうえで大切な遺跡ですので保存にあたっては皆さん方のご協力をお願いします。
平成21年1月 宇部市教育委員会
こちらが奥壁、側壁が残る2号墳か。
これが、西南に開口する3号墳か。
またもや説明板をよく読まずに引き返したしまったが、広場の先に続いていたこの道を100mほど進むと、崖上の箱式石棺があるのでしょう。
帰りの飛行機の前に、まだ見たい古墳があったので気がせいていました。いつか再訪したいと思います。
帰路、海岸への出口。
そこを左に折れた岬先端側に気になる岩があった。
まるで石室石材のような。
反対に回ると、加工の跡も。
さらに先端側には岩のテラス。垂直面は切り出した跡か。
船に積んで遠くへも運んだのでしょう。
半円形の美しい湾でした。縄文期から人を惹きつけてきた土地の魅力がわかるような気がしました。