墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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王山古墳群(前編) 福井県鯖江市日の出町

越前町古墳ツアーの当日朝、鯖江駅集合(10時)の前に王山(おうざん)古墳群を訪ねた。

グーグルマップを拡大すると丘の東側からも見学路があるようだったので、そちらから。

 

小学校を右手に見ながら進むと、古墳見学者も利用できる駐車場があった。

 

その右手は墓地。奥が古墳群のある丘のようだった。

 

道は南に下り坂に。

 

坂下に入口があったが、石碑には「車の道場」と「上野別堂」と刻まれていた。

 

車の道場とは、親鸞聖人に関する史跡だった。

鎌倉時代、親鸞が車輪のついた板輿に載せられて越後に流される際に地元の波多野氏がこれを引き止め、親鸞の教えに深く帰依することとなった場所で、後の念仏の道場となったのだそう。

 

境内の左手に古墳群への道があった。

 

現地の説明板。

国指定史跡 王山古墳群
指定年月日:昭和42年(1967)6月22日
指定面積:34,247.40㎡
種別:記念物
年代:弥生時代中期~室町時代末期(1世紀~16世紀)
遺跡の概要:
王山古墳群は、鯖江台地(標高15~30m)の南端にある独立丘陵「王山(おうざん)」に立地し、54基の墳墓・古墳が確認されている。これまでに14基が発掘調査され、弥生時代中期~古墳時代中期(1~5世紀)にかけて、方形周溝墓や古墳が累々と造られていることが分かった。これらは、王山周辺にあったムラの有力者や指導者、地域を統率した王たちの墓であると推定されている。
また、出土した土器は近江地方(現在の滋賀県)や尾張地方(愛知県)の影響を受けた土器がほとんどで、王山の墳墓に葬られた人々がこれらの地域と密接な関係にあったことを物語っている。
一方、多くの地点で平安時代(9~11世紀代)の土器が出土しており、古墳の造営が終わった後も人々の宗教活動の舞台となったことが推定される。さらに、21号墳の上には鎌倉時代~室町時代末期(13~16世紀)の石塔や集石墓が発見されており、古墳を再利用して墓を造っていることも確認されている。
(後略)

 

整備された園路だったが、ちょっと荒れていた。

 

直前は荒天だったのかも知れない。

 

園路沿いに「王山34号墳」の杭があった。

 

案内板にあった地図で確認すると園路左手の墳丘を見過ごしていたので、少し戻る。

 

柵の向こうに「王山43号墳」の標柱と墳丘があった。

 

41号墳を探していると、柵に開閉できる部分がある。

 

柵を開けて入っていくと41号墳の標柱があった。

 

園路に戻って上っていくと右手に35号墳。字面の背面が墳丘と思われたが確認できず。

 

園路沿い左に36号墳。

ここからは、番号探しのオリエンテーリング状態になってしまった。

 

その先左に37号墳。

 

37号墳の墳丘には「日蓮大菩薩」の像があった。

 

その向かいに38号墳。

 

そこにどっしりと、大きな方形周溝墓があった。

 

隅についた階段を登っていく。

 

四角い墳頂。

 

上ってきた階段。

 

視線を上げると、遠くまで見渡せる眺めがあった。

 

ズームで。

 

裾にあった説明板。ここは古墳群中の”盟主墳”の「王山40号墳」だった。

王山40号墳
弥生時代中期末(今からおよそ2000年前)の方形周溝墓である。規模は東西23.5m×南北21m、高さ3mで、埋葬施設は保存のため未調査である。丘陵の最高所に立地し、王山で最大・最古の墳墓であり、墓地形成の契機となった盟主的墳墓である。
この墳墓は、県内の弥生時代墳墓の中でも最大級の規模を有しており、地域を治めた首長(王)墓である可能性が高い。

 

40号墳から北側には、四角い墳丘がいくつも連なっていた。

 

南西裾から見上げた40号墳。

 

近くにあった説明板。

王山に葬られているのはどのような人々か?
・稲作のはじまり
紀元前3世紀、中国や朝鮮半島から稲作・青銅器・鉄器などの進んだ技術や文化が伝わった。人々は水田を作り、近くの台地の上にムラをつくって定住した。
・王の誕生
稲作は多くの共同作業が必要なため、ムラの中に人々を統率する指導者が生まれた。やがて人口が増え水田が拡大していくと、土地や水の利用をめぐる争いが起こり、周りのムラをまとめる有力なクニが各地に現れ、王(=豪族)が誕生した。
・王の墓
ムラの指導者やクニの王たちは、亡くなると特別な墓に葬られ、一般の人々の墓とは区別された。各地方でいろいろな形態の墳墓が造られたが、王山にある墳墓のうち四角い墓は「方形周溝墓」といって、こうしたムラの指導者たちの墓と考えられる。
・古墳の出現
3世紀になるとクニどうしの戦争が続き、3世紀後半には大和地方(奈良盆地)に強大な国(ヤマト王権)が現れた。ヤマト王権は大王と中心とした豪族たちの連合体で、4~5世紀にかけて国内を統一していった。それにともない、大和地方に出現した大規模な古墳「前方後円墳」も各地に広がった。王山にある墳墓のいち丸い墓は「円墳」といって、ヤマト王権の支配下に入った段階のムラの指導者や王たちの墓と考えられる。

 

40号墳から西側への下り道。

 

そこから南東側の眺め。すぐ下には県立鯖江高校の校舎があった。

 

再び尾根に戻って”オリエンテーリング”の続き。

40号の北隣には微かな膨らみの39号墳。

 

そこから振り返ると四角く固められた方形周溝墓。

 

それが「王山1号墳」

弥生時代の方形周溝墓が壊されることなく、そのそばに古墳時代の円墳が造られていて、ここで暮らした人々の”心の連続性”が実感できた。

 

墳頂には墓坑が現されている。

 

 結構深く掘られた溝。

 

1号墳から北側。

 

それが2号墳。園路で振り返って奥に1号墳、その奥に40号墳。

 

2号墳の北側には円墳の8号墳。

 

8号墳と園路を挟んで同じく円墳の10号墳。

 

10号墳から北側。方形周溝墓がポコポコと連なる。

 

パノラマでも。

 

上記の左は方形周溝墓の6号墳。

 

手前から3号墳、7号墳、9号墳、4号墳・・・と方形周溝墓が列を成す。

 

7号墳。

 

反対側から見た7号墳と3号墳(右奥)

 

9号墳。

 

9号墳には解説板があった。

王山9号墳
弥生時代の終わり頃(今からおよそ1700年前)に造られた方形周溝墓で、規模は9.5m×9.3mである。4本の独立した溝で囲まれており、その内側に遺体を埋葬する。北側の溝から祭祀用と思われる大型の壺が出土した。
埋葬施設は組み合わせ式の箱形木棺で、その規模から成人用と思われる。副葬品は出土しなかった。
・方形周溝墓の築造過程
① 周囲に溝を掘る。掘り上げた土砂は内部に盛る。
② 中央に墓坑を掘り込む(整備ではこの状態を再現している)
③ 墓坑内に木棺を組んで遺体を安置する。
④ 最後に盛土をして墓を完成する。高さは2m前後と推定される。 

 

6号墳を北側から。 

 

6号墳の南隣に11号墳(方形周溝墓)

 

6号墳の北隣に13号墳(方形周溝墓)

 

溝を接する墓と墓。

 

13号墳の北には14号墳(方形周溝墓)

 

そのあたりから見た4号墳。

 

4号墳の上から南側に、9→7→3→8→2→1→40、と続いている。

 

13号墳と14号墳の間から西に下る道がある。

 

木々の間から垣間見える眺めが気持ちよい。

 

途中で園路を振り返っての44号墳(円墳) 

 

その向かいの12号墳(円墳)の標柱の先は崖だった。

 

そのまま来た道を上り返して、”確認”を続けた。

 

マップを再掲載。

結構抜けてしまったが、右下から入って、上に半分くらいの4号墳のあたりまで来た。

つづく。