前回のつづき。
みつわ台駅から再びモノレールで千葉駅へ出て京成千原線に乗り換え、大森台駅へ向かった。目指すは庚塚(かのえづか)古墳群。
格納庫のような形の大森台駅を出たところ。
グーグルマップに従っていくと住宅街の端へ。
斜面を下っていく。気持ちよさそうな枝道を右手に見ながら。
進んだ先の左手にはパークゴルフ場があった。
そこから先は「仁戸名市民の森」
散策路脇の草花。
階段のついた登り坂。
けもの道のような細道も。
パノラマで。青葉でなかなか墳丘が見通せない。
説明板を発見。その後ろに墳丘があった。
説明板によると、「道をはさんで10数基の円墳」から成るとのこと。
庚塚(かのえづか)古墳群
所在地:中央区仁戸名町639-1他
「仁戸名市民の森」の中には、道をはさんで10数基の円墳から成る古墳群が見つかっています。
古墳は地域を代表する支配者が、その権力を象徴するために築いた壮大な墳丘をもつお墓でした。しかし、次代が経つにつれ地方の豪族達も中・小の古墳を築くようになりました。
庚塚古墳群は、発掘調査が行われていませんので規模や築造時期などについて詳しいことはわかっていませんが、おそらく古墳時代も終わりの頃(6~7世紀代)、地元の豪族が本人やその家族のために次々と築いた古墳群と思われます。一般的な例では、墳丘の中央部に遺体を埋葬するための主体部が設けられ、遺体の周辺には武器などの副葬品が納められます。また、墳丘の周囲には、墓域と俗地を画するための周溝と呼ぶ溝が巡っています。
平成5年3月 千葉市教育委員会
詳細な参考図は「石神2号墳」
説明板の背後にある高さ2~3mの墳丘が、2号墳か。
別の角度から見ると、竹の柵も残っていた。
そのさらに南側にも同じような大きさの円墳があった。
反対側に回ると古墳全般の解説板が。
古墳について
古墳は、日本が畿内地方を中心一つの国としてのまとまりをもち、また朝鮮半島との交流も盛んになりはじめた頃、各地の支配者が自らの権威を誇示するため、その領民を動員して築いた壮大な墳丘をもつお墓です。当初の個人墓から、時代が経つにつれ家族墓的な色彩が濃くなるとともに、地方の豪族経ちも各々の力に見合った様々な規模の古墳を築くようになりました。
この古墳築造の風習に特徴づけられる3世紀から7世紀にかけての時代を「古墳時代」と呼びます。
古墳の数は、全国に約20万基が存在するといわれ、県内では現在8500基以上が確認されています。その種類は、平面の形から台形と円形とつなげたような前方後円墳、台形と方形をつなげたような前方後方墳、円形をした円墳、方形をした方墳などが知られています。
ここ庚塚古墳群は円墳群です。
平成5年3月 千葉市教育委員会
上記の古墳の西側にもう1基(パノラマの左側)
両古墳の間に、この土地(計14ha、緑地保全地区は8.2ha)を寄付した故 石橋三知子氏の歌碑と解説があった。
道路を隔てた反対側(右手・東側)へも行ってみる。
斜面を下る道がある。
緑が鮮やか。
降りた谷を北に向かう、ワイルドな小道を進む。
最後は行き止まった。
手作りの階段があったがここは遠慮した。
少し戻って斜面上に上がる。林に埋もれた杉並木は防風林の名残り?
周囲に目を凝らすと墳丘らしき高まりも。
もう一度、道路を横断。南方向。
4基しか見つけていないので、西側エリアをもう一度探す。小道が弧を描くここも墳丘?
南側にも分け入っていったが…
墳丘かどうかは分からなかった。
そこから見下ろす西側斜面。古墳群は西と東を谷戸に挟まれた台地上に所在する。
天井は緑。
西側の谷戸へ戻る。この背面がパークゴルフ場。
谷戸沿いの道を南へ。右の台地上は住宅街。
住宅街への階段。
小道沿いで見た藤の花。
京成千原線の高架が見えてきた。
振り返った風景。
線路に沿って大森台駅へ坂を上がる。途中で振り返って。
千葉方面行きに僅差で間に合わなかった。
しばらく無人空間を味わった。
前出の「古墳について」の解説にあった、”古墳の種類”を示す実測図のアップ。石神2号墳以外は別の町にある。
内裏塚古墳のある場所は富津市だったはずだが…
印旛郡栄町の岩屋古墳は奈良県橿原市の枡山古墳に次いで2番目に大きい方墳。
道祖神裏古墳は希少な前方後方墳。
ちなみに京成千原線の終点・ちはら台駅からは草刈古墳群を見学できる。
6年前、古墳歩きを始めた頃、そしてブログは公開前の頃(当初は家族アルバム代わりにしていた)で、“最近のこと”であるのに懐かしい。