墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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芳荑洞古墳群 大韓民国ソウル特別市松坡区芳荑洞

前回の石村洞古墳群の次に向かったのは、芳荑洞(パンイドン)古墳群。

1.6kmを歩くつもりだったが、とても暑くて途中でタクシーに乗ってしまった。 初乗り分で着いて3000ウォン(≒300円)

大通りに面した西側角の交差点で下車。右側通行なので降りるポイントがわかりにくかった。

向かいの緑が古墳公園。

 

場所はこちら。

 

コネスト韓国地図なら日本語表記で便利。地図には最寄駅として松坡ナル駅も載っているがまだ開通していない。

https://map.konest.com/dpoi/100936867

 

交差点から大通りに沿って東へ行くと入口があった。

 

芳荑洞古墳公園は無料だが、公開は午前6時から午後8時まで。11月~3月は午前9時から午後6時、と数字から分かる。

 

重厚な軒の解説板。

指定番号:史跡第270号 時代:百済 所在地:ソウル特別市松坡区芳荑洞125

芳荑洞

芳荑洞一帯の低い稜線に沿って並んでいた古墳群の一部について1975年に発掘調査を行い、1983年に整備を行った。現在残っている墓は西の高地帯の4基と東の低地帯の4基、合計8基である。
第1号墳と第4号墳、そして第6号墳などは、割石を積み上げた穹窿式(きゅうりゅうしき:四面の壁が次第に狭まり、天上に大きな石を置く築造方法)天井の横穴式石室墳であり、百済前期のものと推定される。第5号墳は調査結果、竪穴式石槨墓と判断された。都市開発により消えてしまった4・5号墳を含め、今まで調査されたのは10基のうち4基(第1・4・5・6墳)であるため、残りの墓(第2・3、7~10号墳)の詳しい構造については分かっていない。
この古墳群は発掘調査の前にすでに盗掘されていたため、遺物がほとんど出土していない。第6号墳から灰青色の高杯をはじめとする新羅時代の典型的な土器が出土しているので新羅時代のものと考えた時期もあったが、漢城百済地域だったソウルの牛眠洞、河南広岩洞、城南板橋などから百済の横穴式石室墳が発見され続けているので、この古墳群も百済時代のものだという主張に裏付けが得られている。

 

東側と西側に4基ずつが集まっている。遠いほうの東側から行ってみることにした。

 

木々の間の見学路を進むと墳丘たちが現われた。 

 

周囲からは小高くなっている斜面に造られている。

 

現地の説明板。

 

その文言は入口にあったものと同一だった。

 

芝生の中には入れないが、見学路を歩けばさまざまな角度から、墳丘が見え隠れする様子が楽しめる。

 

大きさはほぼ同じか。手前が10号墳、その後ろに9号墳、それと重なるように7号墳、左端が8号墳。

 

ここからも「ソウルスカイ」がよく見えた。

 

左が7号墳、その右肩に9号墳、右が8号墳で一番奥が10号墳。

 

4人のユニットがダンスしているようでは(興奮して変な人になっている?)

 

再び林の中を抜けて、今度は西側の墳丘エリアに。こちらも斜面に立地していた。

 

右が6号墳。ブルーシートがかかっているのが3号墳。

 

こちら側も見学路が整備されている。

 

上記の場所から右手の風景。こちらの地面は隣の住宅の4階ぐらいの高さ。

 

6号墳を近くから。

 

3号墳のエリアは金網で囲まれていた。

 

シートの下が気になる。

 

金網のすき間から。盛り上がりが2つ、その間の地面には凹みもある。

 

ここの金網にも解説板が掲げられていた。

 

1号墳、4号墳の石室実測図と5号墳、6号墳の積石の様子が描かれている。

4号墳、5号墳は都市開発で消えている。

ここで前回エントリのコメントでMiwAさんから教わったグーグル翻訳(写真)を使ってみると、かなり判読できた。石の積み方は百済の、土器は新羅のタイプであり、芳夷洞古墳群は百済人、新羅人のうち誰の墓なのでしょう?、と書かれている!

 

こちらは現在発掘調査中の3号墳の解説。写真を見ると、墳丘の斜度が途中で変化することや、円の中心から長さに違いがあることが示されているようだ。

と、ここで翻訳アプリを見ると、墳丘に凹みが見られ土が下方に流れ落ちている可能性が見られ、保存のために調査事業が始まったという経緯が書かれていた。 

 

こちらも調査中の3号墳について。冒頭には40年ぶりの発掘調査と書かれている。最後の一部は「さて、芳夷洞古墳群3号墳の本当の姿を発掘調査を通じて調べてみましょう。」と訳された。

 

こちらは百済時代の「都城」の関連の解説。

 

絵図のアップ。

黄色のサインが現在地で、左の都城が風納土城(ふうのうどじょう:プンナットソン)、右が夢村土城(むそんどじょう:モンチョントソン)で、左下に石村洞古墳群も描かれている。

茶色い楕円が竪穴住居で、右下に集中する緑の凸が墳丘になる。

 

この解説には貴重な情報があったことが、エントリを書いていてわかった。

黄色の現在地・芳荑洞古墳と緑色の石村洞古墳の他に、紫色のピンがある。

 

拡大して見ると「可楽里」とあった。

ピンの位置には墳丘はないが、上方に4号・5号・6号が、左下に3号と示されている。いずれも今の地図では住宅地なので削平されたのだろう。

前回のエントリで書いた「可楽洞古墳群」はこれではないか(ただし、1号墳・2号墳の位置は見当たらない)

 

また地図によって、この芳荑洞古墳群で削平された4号墳、5号墳の位置もわかった。

さきほど6号墳から振り返って見た住宅のあたり。開発前は丘が続いていた。

 

さらに、こちらの解説!

上の二つの写真は石村洞古墳の積石塚と芳荑洞古墳の封土塚との違いを解説しているようだが、グーグル翻訳でみると左下の石室実測図は可楽洞5号墳(2009年)、右下の発掘写真は牛眠洞1号墳(2012年)と書かれており、解説文の最後の行は「今は残っていない可楽洞古墳群の墓も比べてみて」と出た。

前回の謎(可楽洞古墳群は残っているのか?)が完全に解けました。

 

こちらには発掘整備の経緯が示されている。

 

金網の前には2号墳。公園の西端で標高が最も高い場所にあった。

 

その後ろは崖のようになっていて、道路の向こうの西側には教会の塔。

 

 斜面下側から見た2号墳。背後に教会の尖塔。

 

ブルーシートを横目に見ながら斜面を降りる。中央奥は6号墳。

 

金網エリアの隅に置かれていた石が気になった。

 

最後の墳丘の横を回り込んでいくと、なんと石室開口部があった!

 

手前の石段の下から。

 

石段脇に説明板があった。公園を時計回りに巡る場合には、ここが最初の見学地となる。

芳荑洞第1号墳

芳荑洞一帯の丘陵の東南に位置する横穴式石室墳。丘陵の斜面を少し掘り、割石で方形の石室を作った。四面の壁が次第に狭まり、天上に大きな石を置く築造方法である穹窿式天上である。石室は南北の長さ3.1m、東西の幅2.5m、高さ2.15mであり、南壁の西に羨道がつづいている。壁には石灰または泥が塗られ、床には割石や小石が敷かれている。
いつ誰が造成したかは知られていないが、百済熊津時代の公州宋山里第5号墳と構造や形式の面において類似しているので、一部の学者はソウル芳荑洞古墳群が公州の古墳へと受け継がれたと見ている。
1983年の公園造成の際、墓の羨道入り口に花崗岩の板石を置き、土と石が崩れないように補強した。2011年には石室をはじめとし墳墓全体の補修を行った。

 

正面から。左右の壁石の復元は整いすぎているようにも。

 

 鍵がしっかりかかっているが、柵の目が粗いので写真は撮りやすかった。

 

羨道の様子。しゃがんで撮っている。

 

左右の壁には横長の石が積まれている。

 

 足元の様子。

 

大きな天上石。

 

フラッシュで。玄室は右の方にも広がる。幅2.5mなので見えている範囲の倍くらいか。

 

奥壁をズームで。中型の石を積み上げている。天井石が写っている先の玄室は、高さが2.15mある。

床石の並べ方が右にカーブしているように見えた。

入りたかった…

 

石室の様子も堪能させていただいて公園入口へ戻る。途中にあった説明板。

芳荑洞古墳群には8基の墓が残っている。多くの墓が盗掘されたが、一部の墓からは遺物が発見された。それらの遺物は百済前期のものと推定され、「百済古墳群」と名付けられたが、その後の研究で統一新羅時代にものではないかとされている。

 

最後の一文が気になった。 

 

コネスト韓国の詳しい解説にも下記のように書かれている。

1975年に発見された当初は百済時代の古墳群と推定され名前も「芳夷洞百済古墳群」とされていましたが、新羅時代のものと見られる古墳が発掘されたことにより、2011年に「ソウル芳夷洞古墳群」と名称が改められました。

https://www.konest.com/contents/spot_mise_detail.html?id=4889

 

それらは、入口の下記の解説と異なっている。

新羅時代の典型的な土器が出土しているので新羅時代のものと考えた時期もあったが、漢城百済地域だったソウルの牛眠洞、河南広岩洞、城南板橋などから百済の横穴式石室墳が発見され続けているので、この古墳群も百済時代のものだという主張に裏付けが得られている。

 

百済時代(とすると4世紀中頃~5世紀中頃か)のものなのか、統一新羅時代(とすると7世紀末以降)のものなのか。

どちらの解説も確信的に書かれているので困ったが、日本より早く仏教が普及した韓国(三国)で、後者はないのではないか。

 

などと、素人考えを巡らせたのは帰国してエントリを書いている時で、この時は石室を見て高揚した気分で古墳公園を後にした。

 

2号墳の西に見えた教会の前の道。右の崖上が2号墳のあたり。

 

道路を渡った反対側から。

次は、この道を北へ700mにある漢城百済博物館(@夢村土城:モンチョントソン)を目指した。