墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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板橋区立美術館 板橋区立郷土資料館 東京都板橋区赤塚

4つ前のエントリのつづき。

 

赤塚城址公園から丘を降りると板橋区立美術館。

 

このときは「世界を変える美しい本 インド・タラブックスの挑戦」という企画展が始まっていた(1/8で終了)

 

ポスターにもなっている絵本「夜の木」から。

 

タラブックスは、この「夜の木」などの絵本シリーズで世界的に有名になった南インドの出版社で、絵本は手漉きの紙にシルクスクリーンで印刷しハンドメイドで仕上げられている。

実際の本を読めるコーナーでは多くの方が手にとって読んでいたが、色やデザインだけでなく手触りも素敵な絵本だった。

 

タラブックスでは土着の民俗画家に著作権の概念を伝えたり、従業員に等しく教育の機会を与えるなどの活動もしているそう。

 

この展示室の中央にあるのは、布で裏打ちした海図用紙に自家製水彩で描いた絵巻物「ポトゥ」


ジョイデーブ・チトラカールという作家によるもので、左は「ノアの箱舟」、右はなんと「ツインタワーの爆発」

 

美術館見学後は、すぐ隣にある板橋区立郷土資料館へ。資料館の前は溜池公園になっていた。

 

途中には台地上に上がる小路もあった。

 

小路の脇にあった説明板。高島平の名が人名由来であると知った。

赤塚城跡と徳丸ケ原
赤塚城跡は、この公園の南の台地上に位置する室町時代の城跡です。現在は、大部分が都立公園となっており、城山、お林山などとも呼ばれています。
ここは、康正2年(1456)に千葉自胤が入城したと伝えられ、現在でも空堀や土塁の跡を見ることができます。北、東、西の台地の三方は、自然の谷で区画され、北側の溜池は、それらの谷のしみだし水をたたえています。
城跡の北側に開ける高島平は、江戸時代、徳丸ケ原と呼ばれた原野でした。ここで天保12年(1841)、高島秋帆が洋式の砲術訓練を行ったことが、高島平の地名の由来となっています。明治時代以降は開墾され、徳丸田んぼと呼ばれる一面の水田地帯となりました。この時溜池の水は、灌漑用水として利用されています。
高島平団地の開発が始まったのは、昭和40年代に入ってからのことです。
平成10年3月 板橋区教育委員会

 

郷土資料館は入場無料の施設だが、大きな建物で展示も充実していた。

 

エントランス前には大砲の砲身が。

 

常設展示の様子。考古から近現代までの歴史・民俗資料が公開されている。

 

近隣の遺跡からの出土品。

 

赤塚城址貝塚出土(左)と小豆沢貝塚出土(右)の土偶(レプリカ)

 

こちらは古墳時代、手前の4グループと左奥の2点は赤塚氷川神社北方遺跡出土のもの。

この日最初にバスを降りて丘を上った辺りが遺跡エリアだった。

赤丸の敷物の上にある鉄鋌は住居跡から出土した古墳時代中期のもので全長18cm。

韓半島南部で製造したと考えられ、刀剣製作も可能な鋼。

鉄鋌の国内最多出土例は奈良のウワナベ古墳の陪塚・大和6号墳から872枚だが、それ以外では数点程度という稀少な出土例。

http://itabashi-kyoudo-museum.jp/collection/detail-135.php


池袋の文芸座で40年間使われていた35mm映写機(ビクター製)も展示されていた。

 

屋外では古民家(徳丸の旧田中家母屋・蓮根の旧中村家納屋・大門の旧須田家井戸小屋)が移築されている。

 

寄棟造り茅葺き屋根が美しい母屋。昭和46年に徳丸5丁目の田中茂雄氏からの寄贈。

 

軒桁を支える側柱がなく、すっきりしている。その代わり、軒桁の丸太を支える腕木の下を三角形の板が補強している。

 

ちょうど干し柿の季節だった。

 

内部は土間と四つ間取りの部屋があり、関東地方で代表的な農家建築の造りとのこと。

 

座敷に上がって土間方向。 

 

作りつけの仏間と収納。

 

建築時期は江戸時代後期のものと推定されるが、移築されるまでのおよそ百年間に改築が行われ、建てられた当時のものではないとのこと。

 

土間の竈は現役か。

 

石臼は廻すことが出来るようになっていた。 

 

別の一画には重厚な玄関(のみ)が。

 

明治の木造楼閣が昭和49年頃まで残っていた。

新藤楼玄関(しんふじろう)
江戸時代中山道第一の宿場として栄えていた板橋宿は、明治16年の鉄道開通、同17年の火災により次第にさびれていった。そのため、宿場の旅籠組合は再起策の一つとして明治19年に建てられた北豊島郡役所(板橋3丁目)周辺に移り、旅館業というよりは、実態を遊郭に変え営業を開始した。
この建造物は、板橋遊郭中最大の規模を誇った新藤楼の玄関で、寺社建築に用いられている、唐破風造りを取り入れた豪華なつくりとなっている。区内では残り少なくなった明治期の建築として貴重であるばかりでなく、板橋宿の旅籠の変貌を伝える資料でもある。
現在地へは昭和49年に移築したが、長い間の風雪により痛みがひどくなったため平成4年に保存修理工事を行った。

 

検索していたらこちらの方のブログに、移築直前の建物の写真があった。

http://blog.goo.ne.jp/fuw6606/e/41493a6ba84e1703bb3cbcfb642ae7d6

 

見事な木彫りに栄華の名残り。

 

郷土資料館見学後、向かいの道路を渡って再び台地上へ向かった。