墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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中山10号古墳・小山下古墳・中山21号古墳・中山文庫・小丸山古墳 長野県松本市中山

前回のつづき。

松本市立考古博物館を見学した後、 周囲の古墳をいくつか巡った。

昇寛さんの「埼群古墳館」の地図を頼りにしつつ、博物館でいただいた「中山史跡めぐりマップ」を参考に。

 

・中山10号古墳

博物館の前の道を南に600mほど行った右手の畑の中にある。ぽこりの盛土が目立ってわかりやすかった。

 

が、目の前にあってもなかなか近づけなかった。

ここからの墳丘の姿もきれいだが、膝丈以上の草で道は歩行困難。

 

回りこんで南西側に歩ける道があった。

 

左右に青々とした田んぼを見ながら進む。

 

墳丘のすぐ手前から。中山10号墳の大きさは、直径17.0m、高さ2.0m。

坪ノ内古墳群に属し、築造年代は古墳時代後期(6~7世紀)で、馬具が出土していることから埴原牧(はいばらのまき)につながる牧がこの頃すでにあったと考えられるとのこと(中山史跡めぐりマップより)

 

幅の狭い鳥居があった。

 

墳丘の祠に参拝。

 

前出のマップには「石室の石も残っています」とあった。祠の台座がそれのよう。 

 

鳥居越しの眺め。

 

西側は遠くまで見通せた。

 

もと来た道を戻る。

 

左手、東側。墳丘が傾斜地に築かれていることがわかる。

 

中山10号古墳の位置は、考古博物館でいただいた中山史跡めぐりマップ⑤に載っている。

A4版、手書きの絵地図は分かりやすく温もりもある。

裏面には古墳DATAも掲載。

1~9号古墳もあったが、とてもすべては回れそうに無かったので次の機会とした。

 

「埴原」を渡って東側の山裾へ移動。

 

小山下古墳(中山19号古墳)は県道63号線から150mほど細道を上がった道端にあった。

 

坂上側から。説明板はないので、通りすがりでは全く古墳とわからないだろう。

 

一面草で覆われていたが、眺めの良い場所にあった。

 

西側には中山霊園がある丘陵がよく見えた。

 

小山下古墳の先を左折して、市立中山小学校の北隣に中山21号古墳があった。

 

道路脇の少し盛り上がったところ。

 

祠が安置されている。

 

史跡マップの解説には「古墳の上に祠(おしめ様)がまつってあります」と書かれていた。

 

側面から。大きさは直径12.0m、高さ1.5m(史跡めぐりマップより)

 

鳥居があるが参道は草むらの中だった。

 

ズームで。遠くから参拝。

 

台座の石は石室石材のように見えた。

 

小山下古墳、中山21号古墳は「中山史跡めぐりマップ②」に掲載がある。

裏面の解説。 

 

中山21号古墳のすぐ西には「中山文庫」があった。

当地出身の科学教育家・折井英治氏の蔵書が寄贈され、松本市の中山文庫として引き継がれている。

蔵書数15万冊。

https://ja.wikipedia.org/wiki/折井英治

 

その建物の横に古いタイプのバスが展示されていた。

 

形も塗装も可愛らしい。

 

後ろにはデッキもある。

 

解説板があった。もとは日本経済新聞社の宣伝カーだったとのこと。

中山文庫バス(昭和33年、日野ヂーゼル工業製)
松本市中山文庫の敷地内にある大型バスは、日本経済新聞社が自社の宣伝カーとして製作したバスで、昭和38年中山文庫の活動に協力して折井英治先生に贈ったものです。折井先生は、バスを子供たちの遊びの場、学びの場として開放してきましたが、平成12年7月、松本市中山文庫建設に伴い、蔵書とともに市に寄贈されました。

 

また、建物の隣には戦時中このあたりに軍事工場が築かれたことが記されていた。

戦争遺跡 中山地区の軍事工場
三菱重工業株式会社(名古屋)の名古屋航空機製作所の疎開として、昭和20年(1945)2月、松本市街地の既存工場や学校への工場疎開が計画された。軍事工場の疎開は、国(軍)の方針にそったもので、陸軍の「航空本部が建設工事を管轄した。
戦況が危うくなり空襲の危険から逃れるために、4月に中山、山辺一帯の山間地帯に再疎開させることとなり、あらたに地下・半地下工場の建設がはじめられた。
中山地区では半地下工場の建設がおこなわれた。半地下の建設に、陸軍、三菱重工業株式会社、株式会社熊谷組、技術系の大学・専門学校等の学生、勤労動員による松本市周辺や県内外の人びと、中国人、朝鮮人、中山国民学校生徒などが動員された。工場労働にたずさわっていた労働者は、中山地区内の民家や「飯場」に宿泊していた。中山地区の人びとは常会を単位に、女性もふくめてこの工場建設の労働にたずさわった。
半地下工場の小規模なものは8m×20mの大きさで、大規模な工場は20m×30mの規模である。小規模のものが半地下工場であり、大規模なものは、飛行機の格納庫である。
工事の終了は20年8月15日で、ほとんど完成しない段階で終戦を迎えたため、当初の目的である航空機の部品製造の操業にはいたらなかった。
松本市は、これらの軍事工場建設を調査して、平成4年(1992)3月に「松本市における戦時下軍事工場の外国人労働実態調査報告書」としてまとめた。さらに、平成23年、24年に、山辺地区と笹賀地区に「戦争遺跡記念碑」を建立してきた。
戦争の悲劇を二度と繰り返さず、世界の平和と友好を確かなものとするため、これらの戦争遺跡を語り伝えたい。

 

中山文庫の下の県道に出て北に100mほど進むと、左側に小丸山古墳があった。

 

右手は民家。

 

墳丘に上がらせていただく。

 

石柱の方には「古墳」と刻まれていた。木柱の方は判読できず。

 

上からみると石室材のようにみえた石。

 

西側は中山霊園のある丘陵。田んぼの先には小川が流れていた。

 

北側は民家の敷地。

 

墳丘から東方向。 

 

松本市立考古博物館でいただいた「中山史跡めぐりマップ」は5種類あった。既出のほかは下記の3種。気になる古墳群や山城があったが今回は見送った。

 

棺護山(かごやま)古墳群には直径30mの円墳もあり、ぜひ再訪したい。

 

埴原城(はいばらじょう)跡には空堀や郭がよく残る。

 

埴原牧(はいばらのまき)

当地埴原には大化改新前から牧場があり、律令制度では直轄の牧に、その後も官牧や御牧(勅旨牧)となっていったそう。考古博物館に隣り合う牧監庁跡(推定)は平安期に今の長野県に16あった牧場を統括する役所があったと考えられているそうだ。

松本の歴史は奥が深いです。