前回のつづき。
三井本館と道を隔てた西隣に日本銀行本店がある。
1896年(明治29)に竣工。設計は辰野金吾。
1974年(昭和49年)に重要文化財に指定された。
三井本館寄りの一画。
上記の左側。上から見ると円の字に見える右足の部分。
青銅屋根は「円」のように見えるが、左右の足の間にも壁が続いている。その壁には銃眼の小窓が並ぶ。
扉上アーチのキーストーンの部分には千両箱を踏む2頭の咆哮獅子。欧米建築の獅子紋章を辰野金吾が意匠に取り入れたようだ。2頭が抱えるのは現在お札にも印刷されている、日本の「日」という漢字の古代書体の一種に由来する図柄(NIPPON GINKOの左にある)
日本銀行の開業は明治15年(1882)、当時は永代橋のたもとで旧北海道開拓使東京出張所を借りて営業していたが、3代目の川田総裁の時に当本館が建設された。
当地は江戸時代に徳川幕府の金貨の製造所があった場所・金座の跡地。
川田総裁は辰野金吾に「堅牢にして宏壮なものを造るように」と指示したという。辰野は海外を視察して、ベルギーの中央銀行をモデルにルネッサンス様式を加味したネオバロック様式の西洋式建物として設計した。工事着工は明治23年9月、完成は明治29年2月と5年半の歳月をかけている。
円の字の左足の先。
上記のすぐ右側の入口。平日は予約をすれば見学可能(3か月前から受付)
見学・ビデオ貸出サービス :日本銀行 Bank of Japan
10/31、11/1の2日間は予約なしで見学できる企画展「あなたの街の日本銀行」が開催されており、中庭と企画展示室に入れるようになっていた。
馬車に乗ったまま入れるように背が高く造られている門をくぐる。
中庭の様子。中央やや左が上記の入口。
堂々とした、中庭の中央入口。1階の柱頭はドーリア式、2階はコリント式。
壁面がのっぺりではなく、飛び出た部分があって動きがあるところがネオバロック様式か。
辰野金吾は工部大学校造家学科(東大工学部建築学科)の第一回卒業生で、明治12年に卒業後、ロンドン大学に留学し、帰国後の明治17年(1884)に造家学科教授の任を師のコンドルから引き継いだ。
辰野が日本銀行の設計者になることで、近代建築の担い手は、お雇い外国人から日本人へと移った。
建物の構造は以下の日本銀行本店の建物について教えてください。 :日本銀行 Bank of Japanに詳しい。
当初は総石造りとする予定でしたが、明治24年(1891年)の濃尾大地震の被害状況から、地震が多い日本では、欧米のような総石造りは無理であると判断しました。そして、積み上げたレンガの上に、外装材として石を積み上げるという方法に変更し、建物の軽量化を図りました。石の種類は、地階と1階は厚い花崗岩、2階と 3階が薄い安山岩です。
大正12年(1923年)に起きた関東大震災では、建物自体はびくともしませんでしたが、近隣の火災が日本銀行にもおよび、シンボルである丸屋根は、焼けてしまいました。現在のものはその後復元したものです
日清戦争(明治27年<1894年>)に伴う軍需景気により物価が急騰したため、総工費は当初予算の80万円を 4割も上回る 112万円となりました。
今春に読んだこの本を思い出した。辰野金吾はコンドルが来日以前に所属していた事務所の主のウィリアム・バージェスにこそ影響を受けていたという興味深い話。
再読したくなった。
アーチしたのステンドグラス。中からの撮影は不可だった。
この先の企画展示室は、日本銀行の幾つかの地方支店の紹介や、1億円の重みを感じるコーナーなどで賑わっていた。
中央は予約見学者が集合場所のホール。ドアの先は予約した人しか入れない。
その一角で様々なグッズが販売されていた。
石段の曲線と直線のバランスも見事。
中庭に面した2階で、なぜか外側にらせん階段がついているところがあった。
中庭には、馬の水飲み場のあった。
お札の顔出しパネルもあった。
帰り際、外側をよく見たら壕もあった。
つづく。