墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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小名木川 橋と運河 芭蕉記念館

前回のつづき。

清洲橋通りに面し、「東深川橋」の交差点の近くでかろうじて建っていた家屋。

危うい魅力(?)を発していた。

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その交差点から北を見ると道が大きくせり上がって橋になっていた。

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小名木川の橋一覧によれば、東深川橋。

 

徳川家康が開削した運河。行徳の塩を運ぶことから始まり、東北からの物資も行き交う大動脈になっていた。

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以下はWikipediaより。

1590年頃、江戸城を居城に定めた徳川家康は、兵糧としての塩の確保のため行徳塩田(現在の千葉県行徳)に目を付けた。しかし江戸湊(当時は日比谷入江付近)までの東京湾北部は砂州や浅瀬が広がり船がしばしば座礁するため、大きく沖合を迂回するしかなかった。そこで小名木四郎兵衛に命じて、行徳までの運河を開削させたのが始まりである。運河の開削によって経路が大幅に短縮された。

塩以外の運搬や、成田参詣客なども運ぶようになって物量が増大した。1629年小名木川は江戸物流の重要河川と認識され、利根川東遷事業と併せて拡幅、小名木川と旧中川、新川の合流地点には「中川船番所」が置かれた。新川、江戸川、利根川を経由する航路が整備されると、近郊の農村で採れた野菜、東北地方の年貢米などが行き交う大航路となった。

開削とほぼ同時期に、川の北側を深川八郎右衛門が開拓し深川村が、慶長年間に川の南側は、埋め立てられ海辺新田となり、以降、江戸時代を通じて埋め立てが進んだ。やがて小名木川を中心に竪川や大横川、横十間川、仙台堀川などの整備が進み、重要な運河の一つとして機能した。

明治時代に入ると、水運を利用した諸工業が盛んになり一帯は工業地帯となった。1930年には荒川放水路が完成したが、これに伴い荒川や旧中川、新川の合流地点には「小名木川閘門」「小松川閘門」「船堀閘門」が設置されていた。

しかし、昭和50年代には地盤沈下などにより閉鎖されたが、2005年に「荒川ロックゲート」が完成し、旧中川を経由して荒川への通行が可能になった。

以前ブラタモリでも取り上げられた場所。今でも運河沿いの倉庫に船から荷揚げする様子が流れていたが、どの建物だったか・・・

 

 運河沿いに小道があって散歩できるようになっていた。とあるマンションの入口にはかつての煉瓦造り建物の一部が残されていた。

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下記は煉瓦の右横の説明板より。

徳川家康によって開削され、昭和初期まで江戸・東京と利根川流域を結ぶ重要な航路だった小名木川。大正7(1918)年の記録では、午前7時から午後6時の間に735隻の船が通ったとあります。この交通の要所に面して明治34年(1901)年、三谷本店が建てられました。

このレンガ造りの建物は、大正12(1923)年の関東大震災、昭和20(1945)年の東京大空襲にも耐え、地域のシンボルとして親しまれてきました。

由緒あるレンガ造りの建物が存続した約100年間の歴史を残してほしいという地域の願いに応えて、出入口の一部がここに保存されました。レンガを一つ一つ削って組み立てた円弧と水平の二重アーチは、レンガ造りの建物の大きな特徴を物語り、また、この地の歴史と往時の面影を後世に伝えます。平成17年3月 参考「江東区史」平成9年発行

 

西深川橋。明るいブルーで軽快な雰囲気。

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「高橋」という橋(下の写真の奥)を過ぎると、桜の大木が並んでいた。

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桜の先、ゲートの手前で運河沿いの道は行き止まりになる。

小名木川を通るクルーズ船があることを知ったが、花見の時期はすでに満席だった。

小名木川コース | 舟めぐり|江戸東京再発見コンソーシアム

 

一旦町中の道を通って、最も隅田川寄りにかかる萬年橋へ。鉄骨アーチが美しかった。

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車道の方を、見上げながら歩きたくなる。

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萬年橋から東側。小名木川の水門。

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逆サイドは隅田川。

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以下は橋のたもとにあった説明板より。

万年橋は、区内の橋のなかでも古く架けられた橋のひとつです。架橋された年代は明らかではありませんが、延宝8年(1680)の江戸図には「元番所のはし」として記されているので、この頃にはすでに架けられていることがわかります。

江戸時代には、この橋の北岸に小名木川を航行する船を取締る、通船改めの番所が置かれていました。この番所は、寛文年間(1661~73)の頃に中川口に移され、このため「元番所のはし」とも呼ばれました。

小名木川に架けられた橋は、船の通航を妨げないように高く架けられていました。万年橋も虹型とした優美な橋で、安藤広重は「名所江戸百景」のなかで「深川万年橋」としてとりあげています。また、葛飾北斎は「富嶽三十六景」のひとつに「深川万年橋下」として、美しい曲線を描く万年橋を大きく扱い、その下から富士山を望む、洋画の影響を受けた錦絵を残しています。

冨嶽三十六景 深川万年橋下 葛飾北斎

 

 

名所江戸百景 深川万年橋 安藤広重

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1303255/1

 

橋の北岸の「川船番所跡」の説明板のある小公園。

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こちらの説明板には、番所設置は正保4年(1647)頃で、建物の規模は不詳だが弓・槍が5本ずつ装備されていたこと、明暦3年(1657)の大火後に市街地拡大や本所の掘割の完成に伴って、中川口に移転したことが記されていた。

 

公園脇からは隅田川にかかる「清洲橋」が良く見えた。

説明版には「ケルンの眺め」とあり、「ここから前方に見える清洲橋は、ドイツ、ケルン市に架けられたライン河の吊橋をモデルにしており」、「この場所からの眺めが一番美しいといわれて」いると、日本語・ドイツ語併記で記されていた。

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小名木川が隅田川に合流する角に「芭蕉記念館 史跡展望公園」があった(公開は9:15~16:30)

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木戸をくぐって石段を上ると小さな広場があった。

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隅田川を見つめつづける松尾芭蕉像。下記のサイトによれば午後5時になると像の向きが変わるそうだ。どんな意味が・・・。

公益財団法人 江東区文化コミュニティ財団

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これからお仕事の屋形船。

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芭蕉公園のそばには芭蕉稲荷もあった。

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萬年橋から北に300mほど行くと左手に、江東区芭蕉記念館があった。

観覧料大人200円だが、深川江戸資料館(400円)、中川船番所資料館(200円)との3館共通券(500円:1年有効)がある。

見学者は自分の他に2組ほどだった。

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公益財団法人 江東区文化コミュニティ財団

 

入口脇には、草の戸も住み替る代ぞひなの家(元禄2年吟)の句碑がある。

月日は百代の過客にして、ではじまる、おくのほそ道の出立の季節も春だった。326年前。

弥生も末の七日、あけぼのの空瓏々として、月は有り明けにて光をさまれるものから、不二の峰かすかに見えて、上野・谷中の花の梢またいつかはと心細し。

 

下記はWikipedia「おくのほそ道」の解説。

芭蕉が、ほとんどの旅程で弟子の河合曾良を伴い、元禄2年3月27日(新暦1689年5月16日)に江戸深川の採荼庵(さいとあん)を出発し(行く春や鳥啼魚の目は泪)、全行程約600里(2400キロメートル)、日数約150日間で東北・北陸を巡って元禄4年(1691年)に江戸に帰った。「おくのほそ道」では、このうち武蔵から、下野、岩代、陸前、陸中、陸奥、出羽、越後、越中、加賀、越前を通過して旧暦9月6日美濃大垣を出発するまでが書かれている(蛤のふたみにわかれ行秋ぞ)。

 

記念館建物脇の細長いスペースには、石組みが見事な日本庭園があった。

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築山の上に茅葺の祠があって、小さな芭蕉像が鎮座していた。

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つづく。