前回のつづき。
江東区芭蕉記念館を見た後は、清澄庭園へ向かった。
案内板には「天下の名園 東京都名勝第一号 紀の国文左衛門~岩崎弥太郎~東京都」とあった。
有料エリアの入園料は大人150円。
上記のサイトから部分転載。
泉水、築山、枯山水を主体にした「回遊式林泉庭園」です。この造園手法は、江戸時代の大名庭園に用いられたものですが、明治時代の造園にも受けつがれ、清澄庭園によって近代的な完成をみたといわれています。
この地の一部は江戸の豪商・紀伊國屋文左衛門の屋敷跡と言い伝えられています。享保年間(1716~1736年)には、下総国関宿の城主・久世大和守の下屋敷となり、その頃にある程度庭園が形づくられたようです。
明治11年、岩崎弥太郎が、荒廃していたこの邸地を買い取り、社員の慰安や貴賓を招待する場所として庭園造成を計画、明治13年に「深川親睦園」として一応の竣工をみました。弥太郎の亡きあとも造園工事は進められ、隅田川の水を引いた大泉水を造り、周囲には全国から取り寄せた名石を配して、明治の庭園を代表する「回遊式林泉庭園」が完成しました。
清澄庭園は、関東大震災で大きな被害を受けましたが、この時図らずも災害時の避難場所としての役割を果たし、多数の人命を救いました。岩崎家では、こうした庭園の持つ防災機能を重視し、翌大正13年破損の少なかった東側半分(現庭園部分)を公園用地として東京市に寄付し、市ではこれを整備して昭和7年7月に公開しました。
池のほとりに建つ「涼亭」 東京都選定歴史的建造物。
1909年(明治42年)に、国賓として来日した英国のキッチナー元帥を迎えるために岩崎家が建てた。保岡勝也の設計。予約すれば別途料金で利用可能。この日はお茶会が催されていた。
上記の見どころにあるように、園内には無数の名石が配されている。岩崎家が自社の汽船を用いて全国の産地から集めたものだそうだ。
高さ3mくらいありそうな「紀州青石」
寒緋桜が満開だった(3/22)
池の南側から。銅葺きの屋根は「大正記念館」
奥の真ん中が抜けている建物は公園と隣り合う「中村中学校・中村高等学校」松田平田設計の仕事。
現地の説明板。左下の地図にあるように東半分が池のある有料エリア。
ここにはかつてジョサイア・コンドル設計による洋館もあった。鋳鉄製テラス、イスラム風ドーム、オランダ風装飾破風など鹿鳴館時代の建築技術が生かされた巨大な洋館だったが、惜しくも関東大震災で焼失した。
下記のサイトにはより詳しい解説と、写真もあった。
エキゾチックな雰囲気で興味深い。復元できないものか。
川瀬巴水の画中にも。岩崎深川別邸 大正9年作画
上記の清澄ガイド倶楽部のサイトから転載。左上にレンガ色の建物。
西側部分は一般に公開された公園広場となっていた。
柳の若葉がゆっくり揺れていた。
清澄庭園を出て、庭園の東側の清澄通りに沿った「清澄長屋(旧東京市営店舗向住宅)」を見に行った。
昭和3年(1928年)に関東大震災の復興事業として東京市が建てたそうだ。
全戸が間口二間半。50戸近くが並んでいて壮観。鉄筋コンクリートの造りは東京大空襲に耐えて残った。
ブラタモリでも取り上げられた場所。
残念ながら空き地になってしまった場所もある。
横からは構造や増築した部分(3階など)がわかる。
こちらの割烹天竜は夏の鮎料理が素晴らしい(一度ご馳走になりました)
軒の下の横帯など大枠でのデザインが統一されているので見ていて気持ちが良い。
下記のサイトに詳しい取材記事があった。
清澄長屋と清澄寮〜戦火を潜り抜け、深川を見守る:アーバン・ヘリテージ・クロニクル
上記の信号の背後が深川江戸資料館通りになる。周囲にはお寺が多い。お彼岸だったので人手が多かった。
通りに面して「江東区深川江戸資料館」がある。芭蕉記念館で3館共通入場券を買っていたが、単独だと大人400円。
区立の資料館にしては入場料がやや高い思ったら、はいって納得、屋内に街並みが再現されていた。
江戸長屋、船宿、八百屋、土蔵、火の見櫓もある。
三味線に合わせての小唄の公開練習があった。
持ち運べる蕎麦屋台。江戸名所図会のお濠端で、肩に担がれていたやつ。
なかなか充実した展示だった。次回はこどもを連れて来たい。