3連休初日の土曜日、上の子のバレーボールの試合を応援しに、市川大野駅の近くの中学校へ行った。中学3年としての引退試合、ということは行ってからわかったこと。
実は、これまで一度も応援に行ったことがなかった。
会場が市川五中だった。
着いたときは2試合目が始まったところだった。(1試合目は負け)
なんと2試合目勝った!勝ったのですぐ続けて3試合目。これに勝てば明日の試合に出られる。
1セット目をとった!
2セット目も頑張っていたが、徐々に追いつかれ、22対24で相手チームのマッチポイントになってしまった。
そこから追いついて、26対24で勝った!
目頭が熱くなった! 一生懸命に頑張っている姿に。
翌日のトーナメント戦にも出られることになった。
勝つチームがあれば負けるチームもある。どの学校も、この日で3年生が引退するタイミングだったようで、あちらこちらで集会になって一人ずつ挨拶をしていた。涙と拍手。青春。
中学校は台地の端にある。小さな車でもカーブが難しいような細い路地の先。体育館は台地端のほとんどぎりぎりに建っている。
栗の木ごしのわずかな眺望。2階や3階の教室からは、さぞよい眺めだろう。
校門前には 台地の下に降りる階段もあった。
くねくねと、標高差15~20m位を降りていく。
階段の途中からは、台地下と、対岸の台地が見渡せた。
階段の下から振り返ったところ。急傾斜地の看板。
校門前の細道。と、石塀の左に説明版があることに気が付く。
なんと中学校は中世城跡に建っていた。以下は説明板より。
「大野城跡
この説明板の立つ台地は、むかし「城山」と呼ばれていました。しかも、この台地を中心とした一帯には、御門(みかど:大手門)、殿台・殿内(とのだい・とのうち:領主の館)、迎米(むかいごめ:米倉)、馬寄場(うまよせば:馬場)、一ノ谷・二ノ谷(外堀)、楯台(守備陣地)、根古屋(ねごや:従者の居住地)などと、中世の城跡をしのばせる地名や、空堀の跡、土塁(土を盛った囲い)、或いは抜け穴等の跡が各所に残されていたのです。
しかし、この城跡がいつの時代に、誰によって造られたものか、現在、確証できるものが何もありません。
ただ、地域に残る伝承では、関東を征服しようとして、天慶の乱を起こした平将門が、下総国の西南部(市川市周辺)を鎮圧するために築いた城で、大野一帯は乱の後、将門配下の将兵によって、開墾された土地であるといいます。
また一説に、大野の地域は日蓮に帰依した、中山の太田乗明(じょうみょう)の所領であり、大野城は太田一族の居城であったとか、同じく日蓮に帰依した曽谷教信(そやきょうしん)が、法連寺を建て、この地で歿したり、さらに一族によって礼林寺(らいりんじ)が建てられたりしているところから、曽谷氏に関係ある城でなかったかとも考えられます。
昭和44年に第5中学校の地域、54年に第5中学校と大柏小学校の一部を発掘調査した結果では、天慶の頃の将門伝説と結びつけることは無理で、中世戦国時代に相当する城跡でないかと言われています。
昭和56年10月 市川市教育委員会」
地図の部分の拡大。左上が北。市川大野駅の左に第5中学校がある。
さきほどの階段の下は、殿台下で、対岸の台地が、殿台・殿内で領主の館だったことがわかる。次の機会で周辺をじっくり散歩したい。
感動と発見の日になった。
翌日の日曜日、当初は房総のむらの風土記の丘資料館で開催される「千葉ニュータウンの遺跡」という講座を聴講しようと予定していたが、急きょ市川市塩浜市民体育館での応援となった。
初戦で負けたが強豪相手に善戦し、2セット目は18対18の同点まで行った。
おつかれさま!