墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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京見塚古墳 静岡県磐田市国府台

前回のつづき。

この日は掛川駅前で借りたレンタカーを使っていたので、浜松市浜北区の内野(うちの)古墳群を見たあとは、東に戻って磐田市の中心部に近い3つの古墳を巡った。

 

最初に寄ったのは京見塚公園。 現在の天竜川の流路からは3kmほど東だが、かつて川が削った河岸段丘の縁の上に立地している。

 

敷地の北側から入ると普通の広場。

 

読みにくくなっていた「都市公園(児童)京見塚公園」の看板の南側に多くの遺構が残されていた。

 

いきなり横穴式石室が。

 

反対側から。

 

しゃがむとなかなかの迫力。

 

説明板があった。古墳時代後期の小規模な群集墳で13基あるとのこと。

古墳時代後期群集墳
京見塚古墳周辺には、13基の小規模な古墳時代後期の古墳があります。6世紀後半から100年くらいの間に、一定の範囲にまとまって造られた古墳で、このようなまとまりを群集墳と呼んでいます。
北側の古墳は調査された姿で、南側の古墳は造られた当時の姿で復元されています。古墳の外形と、その中の構造が見比べられます。
北側の古墳は造られた当時はもう少し高く、石室の石積みもあと2~3段あったと考えられます。天井は残っていませんが、普通は両壁にまたがる大きな石を置いています。このような構造をもった石室を横穴式石室といいます。この石室は入口を開けると何度も埋葬を行うことができる構造であり、南側の古墳では発掘調査によって追葬の跡がきれいに見つかっています。

 

復元された”南側の古墳”か。

 

他はどれが墳丘かはよくわからなかった。右端に上記の説明板がある。

 

上記の左(西)側には埴輪窯の跡があった。

埴輪窯(はにわがま)
京見塚古墳の周堀を一部拡幅して作られた埴輪窯が2基発見され、うち1基を調査しました。中からは焼台として使用された礫が数十個見つかりました。
この窯は焚口を周堀底面(南側)に、煙り出しを周堤部(北側)に設けています。焼かれた埴輪は京見塚古墳の表面に並べられたり、古墳の周囲に棺として置かれたりしました。
窯とその製品が使われた場所がわかる珍しい例で、東海地方で初めて発見された埴輪専用の窯として重要です。模型は実物大であり、天井窯壁の一部を推定復元して作られています。
全長5.5m、最大幅2.0m、床面の傾斜角は14度を測ります。窯の内部は多量の焼土や灰で埋まっており、その中からは埴輪の破片が数点みつかりました。

 

円筒埴輪が焼成されていた様子が再現されている。

 

真上から。

 

北側から。奥の小山が埴輪が並んでいた京見塚古墳。まさに現地生産方式。

 

埴輪窯跡のすぐ右には弥生時代の方形周溝墓が。

 

その説明板。

方形周溝墓
低い方形の盛土の四辺を溝によって区切られた弥生時代の代表的な墓で、眼下に広がる天竜川沖積地で米作りを営んだ集落の有力な指導者を埋葬した墓です。
台地の縁に南北に5基並んで見つかった墓は、それぞれ区切りの溝を共有し、連結しています。このうち3基を調査しましたが、いずれも遺体を埋葬した主体部は見つかっていません。溝の中から出土した壺形土器の形から、弥生時代中期後半、今から約1900年前に造られたものと考えられます。
古墳時代になると、この3基の方形周溝墓のうち南と北の方形周溝墓の上には古墳が築かれました。

 

北側から見た方形周溝墓。

 

その東側の地面には墓の周囲や主体部を示すようなラインが示されていた。

 

 

それを上から見たところ。横穴式石室の範囲を示したものか。

 

そこから南側に、京見塚古墳の大きな墳丘があった。

 

上がってみると広い墳頂。

 

主体部の位置らしき囲みもあった。

 

樹木は伸びていたが、ぎりぎり眺望があり、遠くまで見通せた。南西方向。

 

磐田まちづくりネットワークのサイトには古墳に関する以下の説明があった。 

京見塚古墳(国府台)
5世紀中頃に造られた直径47mの円墳で、大正11年(1922)に調査が行われ、周辺からは小円墳や埴輪焼成窯、旧石器時代の集落跡遺跡なども発見されている。発見された古墳はこれらが復元され、公園となっている。
墳丘からは、天竜川が一望できる。この地に住んだ戒成皇子(恒武天皇の第四皇子)が、塚の上から京を偲んだため、「京見塚」と呼ばれるようになったと言われている

http://otakara-iwata.net/index.php?FUNC=Detail&Id=129

 

古墳名の由来となっている戒成(かいじょう)皇子の言い伝えは下記のサイトに詳しいが、古墳が築かれた5世紀中頃とは400年ほどの開きがある。

http://www.chuen.net/mukashi/mukashi_110.html

 

京都まで見えそうなくらい遠くまで見えるということなのだろう。

墳頂から北側を。

 

東側斜面とその先のアパート。

 

もういちど墳丘の裾から。木の葉が落ちる冬ならば富士山のような円錐形がよくわかりそう。斜面には段々畑として使われた跡(?)がある。

 

これだけ大きな円墳だが説明板はなく、公園入口に小さな石碑があるのみだった。

 

戒成皇子の歌碑の方が大きかった。

衣手(ころもて)のなみだに空もはれやらで 都のかたは白雲ぞたつ