前回のつづき。
講義の後、まず墳丘へ。
後円部にかかる渡り堤を行く。この古墳は柳本藩の城として二次利用されていて、改変の跡がある。
周濠もため池として利用されてきている。
墳頂はわりと広く、竪穴式石室が発掘された位置が示されていた。
濠を渡る前にあった黒塚古墳の説明板。
史跡 黒塚古墳 (古墳時代前期)
黒塚古墳は、墳丘の主軸を東西方向に置き、後円部を東にする前方後円墳です。全長約130m、後円部直径約72m、高さ約11mの規模を有します。後円部の調査では、中央部において中軸に直交する、南北方向の竪穴式石室を検出しました。
竪穴式石室は南北長さ約8.3m、北小口幅は約1.3m、南小口幅は約0.9m、高さ約1.7mです。石室規模は全国第4位の規模であり、特に墳丘の規模の比較からすれば長大な石室が作られていたと言えます。
石室の構造は、下部を3~4段が人頭大の自然石を積み上げ、この上部から天井部までは板石により強く持ち送りながら壁面を作っています。このため板石で積まれた壁面は、断面が三角形状を呈する合掌式の竪穴式石室であることがわかりました。
石室内には南北長さ約6.2m、幅約1mの粘土で作られた棺台が置かれていました。断面はU字形であることから、本来は割竹式木棺がこのうえに置かれていたことでしょう。ほぼ中央部は鮮明な朱色を呈しますが、分析の結果水銀朱が付着しています。おそらくこの範囲が
被葬者の埋葬された場所と考えられます。
石室に残された遺物は盗掘を免れ、埋葬された当時のまま出土しました。棺内の遺物は画文帯神獣鏡1面が立った状態であり、その両端からは刀剣が2振り置かれていました。棺外では33面という大量の鏡が、棺と壁面の間、および北小口に立てかけるように置かれていました。鏡式は全て三角縁神獣鏡であるという点もこれまでにない特徴です。そして鏡に重複するように、刀剣類、鉄鏃、槍などが出土しました。
今回の調査結果は、古墳築造に込められた当時の葬送思想の解明ばかりか、初期ヤマト政権の樹立を究明する重要な資料となるでしょう。平成13年(2001)1月29日 国史跡指定 平成22年(2010)3月 天理市教育委員会
古墳の軸は東西だが、埋葬主体部の軸はそれと直交して南北で頭を北に向ける。
東側、古墳の軸は真東を向いており、その先には龍王山があった。
南側に目を向けると箸墓古墳が見えた。直線距離で2.3km。
箸墓古墳のズーム。箸墓の軸は東北東方向だった。
北西方向。奈良盆地が広がる。
真西は前方部の木立があって遠望はない。
ここから黒塚古墳展示館を見学したがそれは次回に。
その後にお弁当(各自で用意)タイムがあったが、その時間で黒塚古墳とその周囲を歩いてみた。
前方部から見上げる後円部。大きな高低差があるが後世の改変を大きく受けている。
上記の階段脇の説明板。
城郭に利用された跡
くびれ部付近で検出された掘割である。V字状にうがたれ、上面の幅は約6mあり、深さは3mに達する。後円部と前方部を分断して、後円部を主郭として守りの要としたのであろう。室町時代後半の戦国時代になると古墳が大幅に改変されて砦として利用された。
前方部の端から後円部。周辺の大古墳と比較すると「小さい」が、それでも130mの全長は大きい。
前方部左裾から後円部にかけての墳丘南側面。
逆に後円部裾から前方部を見た南側面。現在、前方部の南側は地続きになっている。
墳丘の北側の斜面。
後円部の裾を廻る道。
前方部の北側の裾。桜が咲いたら見事だろう。
上記で見えた周濠の外側を歩いてみた。
墳丘の北側。右が前方部の裾、左が後円部。
こちらは南側、濠の外からのパノラマ。
南側、濠に沿った道は東に向かってゆるやかに上る。奥に見えている小山は黒塚古墳が属する柳本古墳群の盟主墳・行燈山古墳(崇神天皇陵)
緩やかな高まりだが、同じ丘陵上に築かれていることが理解できた。
右側は柳本藩時代の武家屋敷町になる。
上記の道沿いにも古墳公園の入口があった。遊具のある公園には多くの桜が植わっていた。
周囲には天理教の施設も。
あるお宅には懐かしいスバルが2台もあった。
つづく。