墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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洗足池 千束八幡神社 東京都大田区南千束

前回のつづき。

せっかく洗足池駅に来たので洗足池を一周した。

歩道橋上から洗足池。中原街道沿いに柳の大木が数本並ぶ。

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中原街道に面した湖畔に建物(ボート乗り場?)があり、中に入れるようになっていた。

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中はガランとしてベンチがひとつあるだけだで、いい風が通り抜けていた。

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街道側の看板「テラスジュレ」は、4年前までここで営業していたレストランの名前だった。

【閉店】テラス ジュレ - 洗足池/カフェ [食べログ]

 

閉店は2011年6月で「東京都からの通達により建物を取り壊すことになった」との理由だったが、4年経っても建物は健在だった。

テラスジュレ | 開店・閉店

 

ボートと乗り場は健在。

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 洗足の地名については、お隣の目黒区のサイト、目黒の地名 洗足(せんぞく) 目黒区に詳しかった。池の名も。もとは千束だった(下記に転載)

「洗足」は、品川・大田両区の間に角のように突き出た区境のまち。その地名の由来は、大田区の南・北千束とともに、中世のこの辺り一帯の地名「荏原郡千束郷」にさかのぼる。

さらに、この郷名「千束」については、千束分の稲が貢祖から免ぜられていたところから名付けられたというのが定説。その免祖の理由としては、この地にある大池(現在の洗足池)が水源地として灌漑(かんがい)に利用されていた、あるいは、千人の僧を招いて供養を営む法会(ほうえ)「千僧供養」の費用に当てる免田であった、などの説がある。

なお、「千束」の一部の地域が「洗足」と書き換えられるようになったのは、日蓮が池上に向かう途中、ここの大池で足を洗ったという伝説によるもの。池畔にある御松庵の「袈裟掛の松(けさかけのまつ)」の伝説とともに、広く流布し、いつのころからか、「千束の大池」が「洗足池」と呼ばれるようになったといわれる。

さて、大正の初めまで、雑木林と湿地帯が広がる未開の地であったこの「洗足」の地に、今日の町並みの原型が形成されたのは、大正11年のこと。

「多摩川台地区」(現在の田園調布)とともに、この「洗足地区」を、高級住宅地「田園都市」の建設地に選んだ田園都市株式会社では、碑衾村(目黒区)、平塚村(品川区)、馬込村(大田区)にまたがる三十三万平方メートルを宅地造成して、この年、分譲を開始。その翌年の目蒲線開通・洗足駅開業、さらにその半年後に起こった関東大震災によって、この「田園都市」は、郊外に住居を求める人びとに一躍注目され、急速に「高級住宅地・洗足」が出現することとなった。

 

南東側には湖畔の道はなく、一旦中原街道に出てバスの折り返し場の脇をはいり、左回りに歩いていった。

下は対岸にあった案内図。

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上記の「洗足池DATA」から

公園の面積:約77,000㎡ 池の面積:約44,000㎡

一周:約1.2km 徒歩:約20分 

 

図書館を過ぎた先の左手に、竹林と山門があった。

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御松庵妙福寺というお寺。伝説の袈裟掛けの松(の三代目)がある。

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日蓮上人袈裟掛けの松 由来

弘安5年9月(1282)日蓮上人が身延山から常陸国(茨城県)に湯治に向かう途中、日蓮に帰依していた池上宗仲の館(池上本門寺)を訪れる前、千束池の畔で休息し、傍らの松に袈裟をかけ池の水で足を洗ったと伝えられる。この言い伝えからこの松を袈裟掛けの松と称することとなり、また千束池を洗足池とも称されるようになったといわれる。

天保期(1830~1843)の「嘉陵紀行」によれば、初代の袈裟掛けの松は「枝四面におおい長さ幹囲み三合いがかり、高さ五丈あり」程あったと記されている。

なお現在ある松は三代目であると伝えられる。御松庵 社団法人洗足風致協会

 

きれいに掃き清められた境内。竹林の木蔭とそよ風が気持ちよかった。

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奥の囲いの先には気になる日本家屋があった。

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 湖畔の方へ回り込んでいくと説明板のある石塔があった。

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大田区文化財馬頭観世音供養塔

天保11年(1840)に、馬込村千束の馬医師や馬を飼っている人々によって、馬の健康と死馬の冥福を祈って建てられたものである。

光背をつけた馬頭観世音像の下は、角柱型の道しるべを兼ねており、各面には「北 堀之内 碑文谷道」「東 江戸中延」「南 池上 大師道」「西 丸子稲毛」というように東西南北のそれぞれの方向を示す地名が示されている。

この銘文から、もとは中原街道と碑文谷―池上を結ぶ道との交差する地点に建てられていたと推定されるが、民有地に移された後、平成13年に現在地に移設された。

江戸時代後期の民間信仰、交通史を考える上で貴重なものである。

昭和49年2月2日指定 大田区教育委員会

 

日蓮上人の像も。

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銅像のそばに本堂。

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梁の彫り物が見事だった。

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参拝後に境内を出て、板壁に沿ってゆるい坂を上っていく。

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その先に湖畔に出られる小公園(桜公園)があった。

公園の東側に隣接してアプローチの長いお墓があった。

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勝海舟の墓があった。

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大田区文化財 勝海舟夫妻の墓

勝海舟、諱(いみな)は義邦、初め麟太郎、後に安房または安芳と改め、海舟と号した。文政6年(1823)江戸に生まれる。幕臣として万延元年(1860)咸臨丸で渡米、海軍奉行となり明治元年(1868)江戸開城に尽力する。

維新後は海軍卿、伯爵、枢密顧問官などを歴任し、漢詩、書を好み、高橋泥舟・山岡鉄舟とともに幕末三舟と称せられた。

洗足池やその周辺の風光を愛し、明治32年(1899)没後遺言によりこの地に葬られた。

別荘洗足軒(現在は大森六中)では次の歌をよまれた。

 千足村の別墅に楓樹数株を植ゑて

うゑをかば よしや人こそ 訪はずとも

 秋はにしきを 織りいだすらむ

染めいづる 此の山かげの 紅葉は

 残す心の にしきとも見よ  (飛川歌集より)

昭和49年2月2日指定 大田区教育委員会

 

仲良く並ぶ夫妻の墓。

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と思ったら、こちらのブログに意外な話があった。

幕末偉人伝(無名の偉人たち): 最期に夫に愛想をつかした良妻 勝民子

 

勝夫妻の墓の隣には、広めの敷地に小さな祠が立っていた。

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敷地の正面の説明板で西郷隆盛を祀っていることがわかった。

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「勝先生は、晩年、この洗足池畔に洗足軒と呼ぶ別邸を設けられ、南州先生と日本の将来について歓談されたと伝えられます」とある。

洗足池 - Wikipediaによれば、留魂祠は「西郷が西南役に倒れた後、当時の東京府南葛飾郡の浄光院境内に勝が自費で建てたもの」で、「1913年(大正2年)に荒川放水路開鑿に伴い、当地に移建された」そうだ。

 

留魂祠から公園を湖畔へ降りていくと水生植物園がある。

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7月18日にはここで「はたるのゆうべ」が行われるそうだ。

大田観光協会公式ブログ|OH! TOWER

 

さらに池に沿って左回りに進むと、小島に厳島神社(洗足池弁才天)があった。

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このあたりが洗足池の北端。この北側は台地の端になっていた。

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 斜面を上がっていくと桜の木々が。桜山と呼ばれる場所だった。

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斜面の中段を廻る緑の小道。

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台地を降りて再び湖畔へ。気持ちのいい眺めがあった。右奥がボート乗り場の建物。

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さらに進むと3連の「池月橋」があった。

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橋のそばの斜面を上がると千束八幡神社があった。

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源頼朝とのつながりが深い場所だった。神社が設置した説明板には名文が。

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池月発祥伝説の由来

池月とは「宇治川先陣物語」にある名馬の名である。

治承4年8月(1180)頼朝、相州石橋山の合戦に破れて安房に逃れこの地の豪族、千葉常胤、上総介広常、等の参向を得再挙して鎌倉に向かふの途次ここ千束郷の大池に宿営し八幡丸の丘を本陣として近隣諸豪の参陣を待つ、折からの皓月池水に映るを賞でつる折ふし何處方よりか一頭の野馬、頼朝の陣所に向かって飛来り嘶く声、天地をふるはすばかりであった。

郎党之を捕へて頼朝に献ずるに馬体あくまで逞しく青き毛並に白き斑点を浮べ、恰も池に映る月影の如くであった為之を池月と命名して自らの料馬とする。

頼朝先に磨墨(するすみ)を得、今またここに池月を得たるは之れ征平の軍すでに成るの吉兆として勇気百倍し来れりと云ふ。士卒之れを伝へて征旗を高く掲げ歌声やまざりしとか。

当八幡宮の別名を「旗上げ八幡」と称するはこの故事による。寿永3年春(1184)頼朝木曽義仲を京師に攻む。義仲宇治、勢田の両橋を徹し河中に乱杭茂木を設けて寄手の渡を阻まんとす、この時鎌倉出陣に際し、各々頼朝に乞ふて賜りたる名馬二頭の中、梶原景時は磨墨に、佐々木高綱は池月に打ちまたがり共に先陣を争った。史書に云ふ宇治川の先陣争いである。

池月一代の晴れの場所でこの一番乗りの功名が今に至るまで名馬の誉れを伝へてゐる。

この池月の誕生地が当八幡であって即ち池月発祥伝説の起こりである。

古くより里人の間に語り継がれ大井町線の駅名に(今の北千束駅)、又町会名にもなってゐたが今はない。

遠き治承の昔より光芒すでに八百秋、時代の変遷と共にこの伝説の忘失を惜しみ誌して後世に伝へんとする。

尚、磨墨を葬せし磨墨塚は南馬込に現存する。

氏子青年有志による池月太鼓は即ちこの伝説を太鼓に托したものであり毎年9月の祭日に奉納されてゐる。

池月の 蹄の音か 撥の冴え

平成4年3月 千束八幡神社 洗足風致協会

 

名馬・池月は銅像にもなっていた。

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橋の対岸から。池が入江状になっている場所で、正面の鳥居の奥の丘が千束八幡神社。

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さらに進むと斜面の公園に紫陽花の大きな株があった。

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このときはあまり時間がなかったので、撮りながら歩いて一周30分程。次回はボートに乗って池からの眺めも見てみたい。