墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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船塚古墳(公津原8号墳) 成田ニュータウンの古墳⑥

今回の公津原古墳群探訪の最後の訪問地。

公津原古墳群中の最大規模の8号墳は、麻賀多神社から真東に1km程の赤坂公園内にある。

赤坂公園(市のHPでは赤坂地区公園)は、大きな図書館や消防署、保健福祉施設、2つの大型商業施設などに囲まれており、成田ニュータウンの中心に位置する。

公園前の大通りは、そのまま東に2kmほどで成田駅西口につながる。(ちなみに成田山新勝寺は、駅東口から北東に1kmくらいの場所になる)

広さ約7haで東京ドームのグランド5個分くらい。高低差が結構あって池もある。

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船塚古墳は園内で最も標高の高い場所にある。

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・船塚古墳(公津原8号墳) 前方後方墳 全長85m 高さ7m 7世紀代

以下は、「房総の古墳を歩く」より引用。

「千葉県では数少ない前方後方墳で、全長85mの印旛地域最大の古墳である。長方形に近い墳形をしている。後方部に石棺があったという伝承もあるが、発掘調査が行われていないので、詳細は不明である。また、墳丘の表面から埴輪片が採集されている。築造年代は7世紀代と考えられる。船塚古墳の隣には公津ヶ原9号(円墳)があり、開発前には船塚古墳の西南には、直径50mの大円墳や全長35mの帆立貝式の前方後円墳などがあったが、現在はその姿を見ることができない」

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墳丘からの眺め(北方向)

7mという高さがあり、周囲にスペースが確保されているので、近景は広く見渡せる。古墳の大きさもよく実感できる。

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前方部から後方部。

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前方部から後方部。くびれ部は明確でない。

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後方部から前方部。写真手前がくびれ部のように見えてしまうが、踏み跡が凹んでしまったようだ。

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その踏み跡のあるのぼり道。

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後方部の角。

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後方部の正面下から。

 

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散策路から。後方部から前方部。

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古墳の周囲は散歩道で囲まれていて、すべての角度から古墳をじっくり観察することが出来る。広々として気持ちの良い、「子連れ墳行」にお勧めしたい古墳。

 

前方部左下隅から。大きな布団が敷いてあるような感じがする。

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前方部と小道を隔てて円墳がある。広い公園だが園内はこの2基のみのようだ。

・9号墳 円墳 全長13m 高さ2m

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住宅街側からの公園入り口。石が多く使われている。こちら側は住宅街に面しており、散歩やジョギングを楽しむ人通りがあった。

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帰りに成田市立図書館で成田市のガイドマップ(成田ふるさとガイド2013)をもらった。新勝寺や宗吾霊堂などの見所紹介の写真もあり奇麗なパンフレット。

 見開くと全体図、市街図があるが、なぜか公津原古墳群の記載が全くない。

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古墳群はコンパクトにまとまっているし、国際空港からも近いし、貴重な観光資源なのではないかと思います。

 

今回、最後に「公津原」という名称について。

これは地域名ではなく、検索しても「公津原古墳群」がヒットする。

1994年に成田ニュータウンの南に接するように、新たなニュータウン「公津の杜」が開発され、そちらの地名となったが、「公津」の名称に関しては、もともと千葉県印旛郡あった「公津村」が1954年の合併で成田市となった経緯がある。さらに明治以前は、公津下方村とか公津台方村など、さらに細かく分かれていたそうだ。(Wikipediaを要約)

 

この「コウヅ」という地名が古代に遡れるものであれば、この地が「国府津」、つまり印波国(下総国?)の国の港だということを表すのでは、と想像逞しくすると楽しい。古代は、東京湾ではなく香取の海の方が交流が盛んで、「公津」が交通の要衝たる表玄関、物流の中心地であって人が多く住み富も蓄積して、公津原から龍角寺にかけての一大古墳地帯が築かれたのでは、と。