国指定史跡の上侍塚古墳は、下侍塚古墳の800mほど南に、同じようにほぼ南北に軸を向けて築造されていた。
国道から小さな道標のある枝道を入って先に出会うのは上侍塚北古墳。
現地に標柱等はない。
下調べをあまりせずに上侍塚のみを目的地としていたので、”発見”したような気分になったが、農家の敷地のようで近寄ることはできなかった。
なす風土記の丘湯津上資料館でいただいた資料「大田原市の遺跡」(A4カラー40頁!)によれば、上侍塚北古墳は全長48.5mの前方後方墳。古墳周辺から朱塗りの土師器壺の破片が採取されていて、上侍塚古墳と近い時期に築かれたと考えられているそうだ。
グーグルアースで見ると前方後方墳の形がよくわかる。
そのすぐ南側の林の中に上侍塚古墳がある。
手前から右奥に向かう道が後方部の上辺に接する形。
詳しい説明板があった。
全長114mの前方後方墳。この墳形では全国第7位の大きさ。築造時期は4世紀末頃で、下侍塚古墳に次いで造られたと考えられている。
国指定史跡 上侍塚古墳
墳形:前方後方墳 全長:114.0m
後方部:長さ60.5m 幅58.0m 高さ11.5m
前方部:長さ53.5m 幅52.0m 高さ6.5m上侍塚古墳は、那珂川右岸の段丘上に位置する前方後方墳で、那須地方の6基の前方後方墳のなかでは最大級を誇る。
本墳は、元禄5年(1692)、徳川光圀の命により小口村(那珂川町小口)の庄屋であった大金重貞らが下侍塚古墳とともに発掘調査されている。北方1.5kmで発見された那須国造碑の碑文内容と侍塚の被葬者との関連を探るために行われたもので、日本における最初の学術調査として特筆される。
鏡(捩文鏡か)・鉄鏃・石釧・小札・鉄刀片・管玉・土師器高坏などが出土したが、碑文との関連は明確にならず、遺物は絵図にとるなど調査結果を記録してうえ、松板の箱に収め、もとの位置に埋め戻した。また調査後は、墳丘の崩落を防ぐために松を植えるなどを行っており、遺物の保存に関しても、見事な処置を実施している。
古墳の築造は、出土遺物や墳形の特徴などから4世紀末頃(古墳時代前期)と考えられている。
なお、本墳のすぐ北側には、全長約48.5mの前方後方墳、上侍塚北古墳がある。
昭和26年6月9日 国指定 大田原市教育委員会
実測部部分のアップ。
説明板の後ろ側で柵が開いており、そこに立派な石碑も立っていた。
後方部の裾から前方部方向、南側方向。
後方部から登らせていただいた。
結構な斜度。
後方部墳頂は広場のよう。
墳頂から西側の眺め
後方部から前方部を見下ろす。
くびれ部上から見下ろしたところ。
左が後方部裾。中央がくびれ部で右に前方部が開いていく。
前方部の墳頂。
前方部の先(南側)の田畑。
前方部の一方の隅。
前方部から左側のくびれ部。
視線を右に移すと後方部が大きく聳える。
後方部右側の側面。
もう一度、後方部から前方部。
見ごたえのある古墳でテンションが上がってしまったせいか遠望を撮り逃していた。ん~残念!