墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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御所野縄文公園 岩手県二戸郡一戸町岩舘字御所野

博物館見学後は屋外の縄文世界へ。

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御所野(ごしょの)縄文公園は馬淵川東岸の標高200m前後の河岸段丘に立地する、縄文中期後半(紀元前2500年~紀元前2000年頃)の大規模集落遺跡。入園無料。

 

以下、説明部分は下記のサイトの解説を参考にさせていただいた。

https://jomon-japan.jp/jomon-sites/goshono/

 

三内丸山遺跡(縄文前期中頃~中期末:紀元前3900年~紀元前2200年頃)よりは新しくなるが、300年ほどは同時期に営まれていたことになる。遺跡の広さは三内丸山の42haに対して5分の1弱の8haほど。

といっても、長辺500m×幅150mほどが芝生の平面になっているので、とても気持ちがよい。

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そして竪穴住居は周囲を土屋根を乗せた形で復元されている。

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内部の様子。

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しっかり縄で復元。梯子の上は収納?

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中央に炉が。

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裾だけに土をかぶせた小さなタイプも。

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単身者用?

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炉の上部。煙が抜けるようになっている。

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外を見るとお隣さん。

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横から見ると円墳のよう。

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出入り口側。

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内側から見たところ。

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黒光りする木材や縄は、それ自体が”作品”と感じられました。

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高床式の復元住居も。

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内部の様子。

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住居だったのか、備蓄するものがあったのか。

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「東ムラ」エリアの全景。このあたりからは竪穴住居200棟以上が(同じ場所にも重複して)確認されているそうだ。

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「中央ムラ」には栗林。

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林の近くの大型竪穴住居。

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庇の通路を通って出入りする。

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広々とした室内には炉が2ヶ所。

 

そばには配石遺構が環状に並ぶ。直径30m前後の楕円形で環の中心は空白地。

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それぞれの配石遺構は径2~3m程度の土坑墓。

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それを囲んで竪穴建物跡、掘立柱建物跡、祭祀に伴う盛土遺構などが分布し、さらにその外側の東西に竪穴建物跡が密集するという集落構造。

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休憩施設も土屋根?

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一番端にあった住居グループ。竪穴建物跡は、大型建物跡を中心に3~5棟の中小タイプの配置が基本単位と確認されることから、大家族の分住を示すのではないかという研究も出されているそうだ。

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掩体壕を思わせるような大きさ。

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確かに、出入口は妻壁にしたほうが通りやすい。

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内部の柱や梁。縄文人は石の道具で作り上げた。

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ここからは遺跡エリアを見渡せる。

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建物跡には焼失後に廃棄されているものもあり、それらを調査した結果、土で覆う屋根構造だったことが明らかとなっている。

それを実証した「火災実験跡」

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竪穴建物 火災実験跡
平成11年の火災実験の跡で、実験後そのままの状態で保存しています。建物は西むらで発掘された土屋根の竪穴建物跡を、平成9年に実験的に復元したもので、その2年後に燃やしました。一戸町教育委員会

 

再び栗林へ。

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結構背が高く育っている。

 

花も咲いていた。

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御所野縄文博物館 岩手県二戸郡一戸町岩舘字御所野

「きききの吊り橋」を渡ると目の前に御所野(ごしょの)縄文博物館がある。 

 入館料一般300円。1階・2階に常設展示室。

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国指定史跡・御所野遺跡は、世界文化遺産登録をめざしている「北海道・北東北の縄文遺跡群」のひとつでもあり、縄文時代中期後半(4000~4500年前)に営まれた集落跡。約500年間の定住が確認されているそう。

 

第1展示室のテーマは「土屋根住居の発見」

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ガラスで覗ける床下には「焼失住居」の出土状況が見られる。

 

遺跡から出土した土器の展示や、各地の復元竪穴住居の紹介も。

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1996年度に焼失住居遺構を調査した結果、屋根には土がのっていたことがわかったそうだ。

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屋根に土がのっていた

焼けた竪穴建物跡をくわしく調査したところ、土屋根であったことがわかりました。壁際から床上に堆積していた黄褐色や褐色の土は、屋根にのせた土や周堤の土が崩れ落ちたものと考えられます。また、床上から見つかった炭化材は、土をかぶっていたために炭化した垂木などの建築部材と考えられます。

 

実際に土屋根復元建物を焼いて柱材の炭化状況を検証することも行われている。

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建物を焼いてみた。

竪穴建物が土屋根であったことを検証するため、まず復元図をもとに、土屋根建物を実験的に復元しました。その後、1999年には、調査で出土した炭化材の建築部位を確認するために、復元した土屋根建物の焼失過程を観察しました。
実験の結果、土屋根建物は密閉性が高く、内部が酸欠状態となり、燃えにくいことから、焼けた土屋根の竪穴建物跡は、意図的に火をつけて燃やした可能性が高いことが明らかになりました。 

 

土屋根は地理的にも(全国)も、時間的にも(縄文~平安期)も、実は大きく広がっていた。

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焼けた竪穴建物跡の調査から土屋根建物であることが確認された例は、北海道から九州地方まで広がっています。また、土屋根建物は縄文時代だけではなく、弥生時代から古墳時代、さらには平安時代までつくられました。 

 

御所野遺跡の土屋根竪穴住居については、以前に藤森照信氏の本で知って、訪ねたいと思っていた。

戦後に登呂遺跡が発掘され、住居が復元された際に茅葺が参考にされて全国に広まったが、御所野遺跡を例に、かなりが土屋根ではなかったかということが紹介されていた。

たいした防寒具もない縄文人が、茅葺屋根で寒さをしのげたとはとうてい思えないので、それだけでも土屋根の説得力はある。

 

第2展示は大きなスクリーンとプロジェクションマッピングまである「御所野縄文ワールド」

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御所野遺跡の四季や生活が映像で流れる。

 

 

明るくなると、周囲の壁面の展示も見えるようになった。なかなか凝ったつくり。

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当地で出土した土器がずらり。

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狩りの道具、祈りの用具も。

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石棒は、まつりの道具として。

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土器のかけらに描かれた「羽付き縄文人」は御所野遺跡のシンボルで、頭に羽飾りをつけている。

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キッズ向けサイトにも紹介があった。 

https://jomon-japan.jp/kids/map/goshono/

 

 配石遺構の立石とパネル解説。

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そこは展望室にもなっていて、大きな窓から御所野遺跡を一望できた。

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通路脇の展示では、赤色顔料が入っていた小型土器も。

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最後の第3展示のテーマは「火とまつり」

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一戸町内の別の遺跡、蒔前(まくまえ)遺跡・山井遺跡(いずれも縄文晩期)の出土品。

 

蒔前遺跡出土の「鼻曲り土面」は国の重要文化財。

顔の両端には紐通しの穴が空いている「仮面」

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鼻が曲がっているのが不思議だが、同様の土面は岩手県北部から青森県東南部で5例見つかっているそうだ。

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隣には同じく重文指定の皿型土器(蒔前遺跡)

こちらは底側だろうか。それにしても見事な意匠。

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鎌倉彫りのような芸術性を感じました。

 

縁飾りのある鉢形土器も蒔前遺跡出土の重文。 

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山井遺跡からの土偶たち。

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こちらは一戸町の椛ノ木(かばのき)遺跡出土の土偶(縄文後期)

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愛称は「縄文ボイン」

立派! 右足の付け根と首にアスファルトが使われた跡があるそう。

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こちらの壺形土器も蒔前遺跡から。

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現代の作品といっても全く違和感のない完成度。

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そもそも現代と比較すること自体がおこがましいのかも知れませんが…

 

午前9時の開館からあまり時間が経っていなかったので、カフェに人はいなかった。

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そして、いよいよ縄文フィールドへ。

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