2019年GWは初日に近場の古墳を訪ねた(写真多めです)
下車したのは総武本線の物井(ものい)駅。千葉駅から4つ目で佐倉駅の一つ手前。
「古墳広場」の表示が出たので迷うことはないと確信し、徒歩21分を気楽に歩き出す。
駅の西側の台地へ上がる。振り返っての線路側。右奥に東関道が見えている。
上っていくと戸建ての住宅街。築年の新しい家が多い。
一方で、旧道の面影も。
分岐には石碑があった。
自動車教習所の横を抜けて、そろそろ見えてくるはずだが・・・
ズームすると道の先に富士山が。
住宅に囲まれるように、円墳2基が残る公園があった。
説明板やベンチも整備されている。
30以上あった物井古墳群のうち、5号墳と8号墳の2基が保存された。
物井古墳群
「もねの里」では、大昔の人が住んだ住居跡やお墓である古墳など、人々が長きにわたり生活していた痕跡がみつかっています。
物井地区に広がる古墳群は、物井古墳群と呼ばれ、6世紀から7世紀にかけて造られた円墳や前方後円墳が30基以上みつかっています。
発掘調査では、埴輪(円筒・人物・馬形)、鉄製の鏃などの武具、玉類(ガラス、コハク製)などの装身具に代表される多種多様な遺物がみつかっています。ここからやや離れたところ場所にある御山遺跡では、筑波石といわれる絹雲母片岩を使用した箱式石棺が出土し、内部には当時の人の亡骸とともに金銅装大刀や勾玉が副葬されていました。
古墳のうち、保存状況がよかった2基は、発掘調査はせず、昔の姿のまま古墳の大きさや形が体感できる様、表面を芝で被い公園内に残すこととしました。(四街道市教育委員会)後略
振り返ると空に彩雲が。
ズームで。
初めに、物井5号墳へ。
墳頂から北側。グーグルアースでは造成中で地表がむき出しになっているが、そのところどころに円墳の跡のような形が浮かんでいるように見える。
ふさの国文化財ナビゲーションで「四街道市物井」を検索すると、円墳の赤い丸が数多く示される。
https://map.pref.chiba.lg.jp/pref-chiba/Map
5号墳から見た8号墳。
裾から見た8号墳。
8号墳の墳頂。
立ち木が刈られた跡があった。
8号墳から見た5号墳。
8号墳から南側。300mほど先が東関道で、その間は物流センターや大規模店舗のエリアになっている。
南側から見た8号墳。
北側の道路から。右手前が5号墳、中央奥が8号墳。
四街道市のサイトには、郷土史を詳しく解説した「四街道の歴史 よもやま話」のシリーズが掲載されていて興味深い。2話目が物井古墳群に関するもので、そこに含まれる御山遺跡(千代田公民館付近)からは、旧石器時代から奈良・平安時代にかけての多くの遺構や遺物が調査(昭和59・60年)で見つかり、その内の1基の円墳からは筑波石の箱式石棺と6体の人骨、そして全長83cmの「金銅装頭椎大刀」などの見事な副葬品が納められていたそうだ。
https://www.city.yotsukaido.chiba.jp/miryoku/smile/rekishi_bunkazai/history/yshakai2016090113.html
古墳公園の北側にある通り。この先700mほどに公民館があり、かつては2,30基の古墳が帯状に分布していた。
ふさの国にある赤丸をスマホで確認しつつ、「千代田団地」 の大きな交差点を西に渡って小道に入っていくと、赤丸のひとつと思われる位置に”高まり”が。
これはどう見ても!
ちょうど柵の内側で作業されていた方がおられたので聞いてみると、これは古墳ではなく土地の持ち主が築いた土盛りであるとのこと・・・
少しもやもやしながら隣の竹林の中を目を凝らてみるが平坦で。
その先へ歩いていくと、自販機手前左方向に土盛りが目に入った。
これは古墳でしょう。
たまたまこの背面で作業されている方がおられて、尋ねると「古墳です」との答え。
墳丘の南側は太陽光パネルが並ぶ。
後でグーグルアースを見ると、目の前にもう1基が残っていた。
そこからさらに西へ、ふさの国に赤丸が沢山記される千代田古墳群のエリアへ向かう。途中にあったいい雰囲気のピザ屋さんはBoscoと。
この雑木林の中にも赤丸が記されていたが、全く見通せないほど草が繁っていた。
その先には大きな池。
背面には浄水場のタンク。
埋蔵地マップで赤丸が集中するエリアも住宅街になっていた。
ここは開発されてかた時間が経っている模様。
この微妙な空地はもしかしてと思ったが、帯状に続いていたので違うようだ。
物井古墳広場の方へ引き返して、東関道の南側へ向かった。