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墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

寛永寺坂、御隠殿坂(谷中霊園) 台東区谷中・上野桜木

こちらの記事のつづき。

massneko.hatenablog.com

 

鶯谷駅のすぐ北にある言問通りの橋上から。 

 

この橋を上野の山へ上って行くと、左側の歩道の先に標柱があった。

 

寛永寺坂(かんえいじざか)の説明。

大正年間(1912~25)発行の地図からみて、この坂は同10年ごろ、新設されたように推察される。当初は鉄道線路を踏切で越えていた。現在の跨線橋架設は昭和3年(1928)8月1日。名称は寛永寺橋である。坂の名をとったと考えていい。坂の名は、坂上が寛永寺境内だったのにちなむという。寛永寺は徳川将軍の菩提寺だった。坂上、南に現存。

もとは崖下の山手線まで下りる急坂だったのだろう。 

 

そのまま言問通りを進むと、風情のある店構えが。 

 

8年以上前に閉店した「おでん屋」で、おせんは女将さんの名前だった。

吉田類の酒場放浪記 BS-TBS | お店情報

がんばって残っている建物が、再びお客で賑う日が来てほしいが・・・

 

その先の右手に谷中霊園入口の桜並木があった。 

 

進んでいくと左手に行列があった。 ドアマンが常駐するフランス菓子の店は、パティシエ・イナムラショウゾウ。

INAMURA Shozo | PATISSIER INAMURA SHOZO

別の機会で並んでみたい。

 

霊園に入ると「坂」の案内板があった。目の前ぎりぎりに車が留まっていたのでズームで。

 

広場のような場所に立つ、枝振りの激しい大木の前を右折。

 

てくてく進むと、JRの跨線橋へと続いていた。 

 

石壁に沿うように「御隠殿坂(ごいんでんざか)」の標柱があった。

明治41年(1908)刊「新撰東京名所図会」に、御隠殿坂は谷中墓地に沿ひ鉄道線路を経て御隠殿跡に下る坂路をいう。もと上野より御隠殿の通路なりしを以てなり。」とある。御隠殿は東叡山寛永寺住職輪王寺宮法新王の別邸。江戸時代、寛永寺から別邸へ行くため、この坂が造られた。「鉄道線路を経て」は踏切を通ってである。

 

左の分岐は斜面の墓地へ向かう。

この坂も寛永寺坂と同じく、かつては崖下へ下って踏切となっていた。

 

今は歩行者専用の跨線橋が架かってる。

 

崖に沿って走る京浜東北線。 

 

跨線橋の先には、京成線が通っていた。

 

急なカーブをゆっくり進む。この先が日暮里駅。

 

反対側はJRを跨いで京成上野駅へ。

 

上記の先は上野台地の切り通しを行く。先ほどのフランス菓子店を背にして進むと京成線を跨ぐ橋に突き当たる。

 

同じ橋から反対側。すぐ先でトンネルへ。

 

かつてはこのトンネル内、終点の京成上野の一つ手前に博物館動物園駅があった。今も地上の駅舎が残る。

massneko.hatenablog.com

 

トンネル入口の上には立派な扁額があった。

こちらの奥深い鉄道ブログによると書かれている文字は「東臺門」

東臺門のその奥に

東叡山寛永寺がある台地への入口との意だそうで、京成電気軌道の創立者・この地下線開通当時の社長であった本多貞次郎が揮毫し、左端に昭和八年の日付と同氏の署名があるそうだ。

つづく。