前々回の書道博物館へ行く際に、近くの小野照崎神社に立ち寄った。
一年前に入谷鬼子母神へ行った折に参拝したが、富士塚を見逃していた。
最寄駅は鶯谷(南口)
駅舎は線路を跨いでいる。
上野の山から跨線橋を下りる。
下の線路は10本以上。
歩道は途中から階段になる。
突き当たりの言問通りから振り返って。
通りに沿った要傳寺の壁に旧町名の案内板があった。
下町まちしるべ
旧 上根岸町
呉竹の根岸の里は、上野山を背景にした田園風景と清流音無川の流れる静寂の地であった。江戸時代から「根岸の里の侘び住まい」といわれ多くの文人墨客が好んで住んだ。
そのむかし、この付近には大きな池があった。そして上野山のもと(根)にあったことから、すでに室町時代には根岸と呼ばれていた。江戸時代初期、根岸は金杉村に属し、いくつかの民家が建っていた。風光明媚の地であったことから文化文政(1804~1830)の頃には別荘地として二百戸余りになっていた。明治22年(1889)、根岸は下谷区に編入されたあと、すぐに上根岸町、中根岸町、下根岸町に分けられた。
「雀より鶯多き根岸かな」
俳人正岡子規は、明治25年から同35年まで根岸に住んだ。今、その住まいは「子規庵」として残されている。
要傳寺の東側の道に入り進んでいくと二股道にせんべい屋さん。
せんべい屋さんの右を進むと、これから巨木化しそうな杉の木やヘヤーサロンがあった。
そこから小野照崎神社は目と鼻の先。
まずは拝殿で参拝。
説明板の内容は、前回にも載せたので割愛。
小倉百人一首に歌が収められる平安期の公卿、小野篁(参議篁:802~853)が祀られている。
神社の公式サイト小野照崎神社に、当社で願掛けをした国民的俳優の話が載っていたが、下記の方のブログでそれが渥美清さんだったことを知った。
無名時代に、好きだったタバコを一生吸わない代わりに仕事を、と願掛けすると数日後に男はつらいよの主演が決まったそうだ。
今回は、社殿の左にある富士塚も外から見学。
毎年6月30日と7月1日の2日間、大祓と富士開山の日に”開放”されるとのこと。
説明板もあった。
下谷坂本の冨士塚
台東区下谷2-13-14
この塚は模造の富士山で、文政11年(1828)の築造と考えられている。「武江年表」同年の項に「下谷小野照崎の社地へ、石を畳みて富士山を築く」とある。境内の”冨士山建設之誌碑”によると、坂本の住人で東講先達の山本善光が、入谷の住人で東講講元の大坂屋甚助と協議して築造し、冨士山浅間神社の祭神を勧請したという。
東講は富士山信仰の集団、いわゆる富士講の一。富士山信仰は室町末期頃に起り、江戸時代中期には非常に盛んになり、江戸をはじめとして富士講があちこちで結成された。それにともない、模造富士も多数築かれ、江戸とその近郊の富士塚は五十余を数えるに至った。しかし、いまに伝わる塚は少ない。
ここの富士塚は高さ約5m、直径約16m。塚は富士の溶岩でおおわれ、東北側一部が欠損しているものの、原形がよく保存されている。原形保存状態が良好な塚は東京に少ないので、この塚は貴重である。昭和54年5月21日、国の重要有形民俗文化財に指定された。
平成6年3月 台東区教育委員会
境内には庚申塔の集まるエリアもあった。
京都市の金剛寺八坂庚申堂、大阪市の四天王寺庚申堂と並ぶ「日本三庚申」の一つとのこと。
ここから書道博物館(中村不折記念館)まで、スマホ地図をチラ見しながらブラブラと歩いた。
見事な錆び度合いのトタン壁。
西念寺の一画。
西蔵院の山門。門前に「根岸小学校発祥之地」の石碑があった。
そのお隣、”防災ひろば・根岸の里”には、ほぼ満開の紅白梅(1月28日)
その先の「根岸小学校前」の歩道橋から、張り付くような店舗を。夏はモジャハウスか。
こちら側はドア一枚分の幅。2階への入口か。後方に少し広がるがそれにしても芸術的な、土地の有効活用。