墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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天空橋~五十間鼻~玉川羽田弁財天 東京都大田区羽田

多摩川河口の大田区側に昭和初期に造られた赤レンガ堤防跡があると知って訪ねてみた。

京急羽田線(と東京モノレール)の天空橋駅で下車。

天空橋は居住地と空港を隔てる海老取川にかかる人道橋だった(右奥が天空橋駅のある空港エリア)

 

堤防を越えて川縁へ。

 

下から見上げる天空橋。

 

奥(北)に見えたのは穴守橋、橋の上は環八通り。

左(西)に行くと穴守稲荷神社がある。

 

南側、多摩川方向。水面に川底が顔を出していた。

 

堤防の内側に戻って多摩川方向へ歩き出すとすぐに「駅前地蔵尊」。昭和63年に移転建立とあった。

 

こちらのかたのブログによれば、京急空港線はかつて海老取川を渡る前が終点の「羽田空港駅」で、お地蔵様はその駅前から移転されたと考えられるそう。

思いつくままに、すらすらと。 駅前モニュメント60 京急天空橋駅 駅前地蔵尊

 

さらに昔は穴守稲荷に参詣客を運ぶ「穴守線」だった。

京急空港線 - Wikipediaの歴史の項には非常に興味深いストーリーが記されていた。

 

コンクリの堤防には羽田空港沖合移転前に大田区の小学生が描いた「子供達の夢」が並んでいた。「200haの跡地が出現する」とあるが結局空港が拡張されただけだったか。

 

さらに海老取川に沿って南へ行くと弁天橋があった。

 

対岸の鳥居は、旧穴守稲荷神社大鳥居。かつての空港ターミナルビル前の駐車場にあったもの。

 

こちらのかたのブログにも、大変興味深い歴史が記されている。

羽田の大鳥居 ( 都市伝説 ) - 実録!!ほんとにあった(と思う)怖い話 - Yahoo!ブログ

 

こちら側の岸、堤防の外側に祠があった。堤防から橋で渡れるようになっていた。

 

五十間鼻無縁仏堂で由来が記されていた。

五十間鼻無縁仏堂の由来
創建年代は、不明でありますが、多摩川、又、関東大震災、先の第二次世界大戦の、昭和20年3月10日の東京大空襲の折には、かなりの数の水難者が漂着致しました。
その方々をお祀りしていると言われております。
元は多摩川河口寄りの川の中に角卒婆が一本立っているだけで有りましたが、初代漁業組合長 故 伊東久義氏が管理し、毎年お盆には盆棚を作り、有縁無縁の御霊供養をしていました。昭和53年護岸工事に伴い現在地に移転しました。その後荒廃著しく、仲七町会 小峰守之氏、故 伊東秀雄氏が私財を持ち寄り復興致しました。
又、平成16年に村石工業、北浦工業、羽田葬祭スミヤ、中山美装、中山機設の協力により新たにブロック塀、角卒婆、桟橋などを修理、増設、現在に至ります。
又、新年の水難祈願として、初日の出と共に、羽田本町日蓮宗 長照寺住職並びに信者の方々が、水難者の供養を毎年行っています。合掌 堂守謹書

 

合掌。

 

この日の多摩川の水は濁り気味だった。対岸は川崎市。

 

北側は海老取川。

 

堤防の内側に説明のついたマップがあった。右上が現在値で少し下から始まる赤いラインが煉瓦堤。

 

赤レンガ堤と五十間鼻の解説。

赤レンガの堤防と五十間鼻
羽田の赤レンガ堤防は、治水対策として大正から昭和初期にかけて行われた多摩川改修工事で建設された。自然堤防上、道路面から腰高ほどのレンガ堤防を建設したのは、堤内外を日常的に往来する羽田漁師町の土地柄への配慮であった。イギリス積み工法による堤防は「赤レンガの堤防」として親しまれ、羽田の原風景ともいえる。そのレンガ堤防の突端、多摩川と海老取川の合流地点には、長さ50間(約90m)の石積みの沈床があり「五十間鼻」と呼ばれる。新防潮堤が完成して隠れてしまったが、今も昔も初日の出の絶景スポットである。

 

祠の下に見えていた石積みが五十間鼻だった。

 

赤レンガ堤の方へ向かっていくと、その手前に玉川羽田弁財天があった。

 

こちらにも参拝させていただいた。

 

手書きの御由緒。

もともと羽田弁財天も穴守稲荷神社と同様に現在空港がある場所にあり、終戦直後に占領軍による強制退去を受けている。

『江戸名所図会 2巻』より「羽田弁財天社(はねだべんざいてんのやしろ)」

 

ふと視線を感じると…

 

拝殿前から振り返って。右手は水神社。道路が通る土手の向こうに多摩川。

長くなったので赤レンガ堤は次回に。

つづく。