墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

茗荷谷 釈迦坂 庚申坂 切支丹坂 切支丹屋敷跡 小日向一丁目東遺跡 東京都文京区小日向

前回のつづき。

大塚3丁目の交差点から茗荷谷駅までは春日通りを600mほど。

地下鉄丸の内線はここから後楽園に向って約1kmが地上区間。本郷台地と小日向台との間、つまり茗荷「谷」を高架で通る。

ちなみに茗荷谷駅の南側には線路を跨ぐ橋が3本連なるが、いずれも谷の下へは通じていなかった。

 

ズームした車両基地。架線がないのでよく見える。銀座線車両も収まっていた。

 

春日通り側の細道を進むと、いい具合に下り始めた。

 

両サイド石垣という風情。

 

説明板もあった。

釈迦坂 文京区小日向1-4 徳雲寺

春日通りから、徳雲寺の脇を茗荷谷へ下る坂である。

「御府内備考」によれば、「坂の高さ、およそ一丈五尺(約4m50cm)ほど、幅6尺(約1m80cm)ほど、里俗に釈迦坂と唱申候。是れ徳雲寺に釈迦の石像ありて、ここより見ゆるに因り、坂名とするなり。」

徳雲寺臨済宗円覚寺派で、寛永7年(1630)に開山された。「新撰江戸志」に寺伝に関する記事がある。

境内に大木の椎の木があった。元禄年間(1688~1704)五代将軍綱吉が、このあたりへ御成の時、椎木寺なりと台命があった。そこで、この寺を椎木寺と呼ぶようになった。後、この椎の木は火災で焼けてしまったが、根株から芽が出て、大木に成長した。明治時代になり、その椎の木は枯れてしまった。椎木寺が椎の木を失ったことは惜しいことである。

徳雲寺の境内には六角堂があり、弁財天が祀られ、近年小石川七福神の一寺となっている。

文京区教育委員会 平成14年3月

 

坂はさらに右へ左へとカーブしながら丸ノ内線の下へ。

 

下から見上げたところ。かなり深く切り通している。

 

高架下トンネルを抜けるとまたトンネル。真ん中のトンネルを進む。

 

少し行くと左に上る坂があった。

登りきった位置から。石の手すりが重厚。

 

そこに説明板があった。

庚申坂

「小日向第六天町の北、小石川同心町の界を東より西に下る坂あり‥略‥この坂を切支丹坂というは誤りなり。本名”庚申坂”昔、坂下に庚申の碑あり‥」『東京名所図会』

庚申信仰は庚申の日(60日ごと)人が眠ると三尸の虫が人の体から出て天にのぼり天帝にその罪を告げるというところから、人々は一晩中夜明かしをした。この信仰は中国から伝わり、江戸時代に盛んになった。従ってキリシタン坂はこのさかの地下鉄ガードの向側の坂のことである。

「‥両側の藪の間を上る坂あり‥これが真の切支丹坂なり」『東京名所図会』

とぼとぼと老宣教師ののぼりくる 春の暮れがたの切支丹坂(金子薫園)

文京区教育委員会 昭和60年3月

 

今度は坂を下って別のトンネルへ向かう。

 

 車両基地の下を通るので長い。

 

振り返って見る庚申坂。

 

トンネルを抜けると切支丹坂。振り返ったところ。

 

枝道から見た切支丹坂(左下から右上へ)

 

上って右へ行ったところに標石があった。

 

都旧跡 切支丹屋敷跡。

 

説明板もあった。

東京都指定旧跡 切支丹屋敷跡

所在地:文京区小日向1-24付近 標識:大正7年4月 指定:昭和30年3月28日

キリシタン屋敷は正保3年(1646)に宗門改役井上筑後守政重下屋敷に建てられた転びバテレンの収容所です。江戸幕府キリスト教を禁止し、多くのキリシタンを処刑していましたが、島原の乱をへて、転ばせたバテレンを収容し閉じ込める施設として新しく造ったものです。牢屋と長屋があり、この中では一応無事な生活が許されていました。幕府がバテレンの知識を吸収する場にも利用されました。

最後の潜入バテレンとなるシドッティ(シドッチ)もここに収容され新井白石の尋問を受けています。シドッティ後は収監者も無く、享保9年(1724)焼失し、以降再建されず、寛政4年(1792)に屋敷は廃止されました。

平成24年3月建設 東京都教育委員会

 

 説明板の前の石碑の上にあった手書きコピー。1枚しかなかったので写真で。

「この地では多くのカトリック信者が殉教者となって死んでおります」とあった。

2014年10月にこの場所で没後300年の記念式典が行われていた。

シドッティ没後300年を記念 | www.cathoshin

 

ここにはお馴染みの旧町名板もあった。

駅名に残る茗荷谷だが町名は昭和41年になくなっていた。

 

道の向かいには新築マンションがあった。

 

マンション前にあった解説板。

マンションは小日向一丁目東遺跡の上に建っていた。

 文京区 小日向1丁目東遺跡 小日向1丁目23番地内

小日向1丁目東遺跡の発掘調査は、集合住宅建設工事に伴い平成26(2014)年に実施されました。写真1は遺跡全景を写したものですが、さまざまな時代の遺構・遺物が確認され、複合遺跡であることが判明しました。

縄文時代の遺構は縄文時代早期の屋外炉が5基、弥生時代後期から古墳時代前期(五領式期)の遺構は竪穴建物跡5軒(写真2・3)、奈良・平安時代の遺構は竪穴建物跡3軒と土坑1基(写真4・5)、そして中世の陶器の破片が出土しました。江戸時代、寛永江戸得ず〈寛永19・20(1642・43)年〉や「御府内往還其外沿革図書」に拠れば、寛永18(1641)年、調査地周辺は、井上筑後守政重が下屋敷(大名屋敷)として拝領します。江戸時代の遺構の内、17世紀初頭の遺構として土坑が確認されていますが、筑後守拝領以前の遺構と推定されます。寛永17(1640)年、筑後守は宗門改役となり、正保3(1646)年、当該地は切支丹御用屋敷となり、現在は東京都指定旧跡です。第4図は創設当初の敷地の様相を描いたもので、その一部を拡大した第3図では住人の氏名が窺えます。元禄14(1701)年、屋敷は縮小され(第5図)、さらに享保11(1726)年に、敷地は縮小し、これらの三段階の切支丹御用屋敷の変遷を経て寛政4(1792)年に廃止されます。17世紀前葉から18世紀中葉までの遺構は、土坑が多く、遺構の種類に偏りがみられ、遺構数から、周辺地域に比べて緩やかな土地利用の実態がみてとれます。廃止後は、酒井、鈴木家等の幕臣の屋敷に分割されることが分かります(第2図)。第2・5図から、切支丹御用屋敷に北接する大草家の屋敷は切支丹御用屋敷廃止後もそのままであったことがわかり、また第5図の大草家の屋敷の左側には墓が描かれており、検出された3基の墓(写真6)とどのような関係にあるのかは今後の調査に期待したいと思います。また、18世紀後葉から19世紀中葉の遺構と遺物が最も多く、活発な土地利用の様相が窺えますが、幕臣の屋敷の時期にあたります。

このように小日向1丁目東遺跡の発掘調査の結果、切支丹御用屋敷に関わる遺構・遺物が確認されるとともに、当該地は縄文時代から現在に至るまで人びとが連綿として居住しており、住みやすい土地柄であることが明らかになりました。

 

かつての縄文人が暮した高台の特等地はその後に古墳になり、千年を経て大名屋敷や寺院・墓地、洋館や学校となり、その後にマンションになる場合が多い。

マンションの後にはどうなるのだろう。 

 

当マンションは「都心×低層×高台」と3拍子揃った大人気物件(2位)だった。

ちなみに一位は白金台。

一番人気がお寺の借地という謎 今から買える東京人気マンションランキング【1位】|ニュース3面鏡|ダイヤモンド・オンライン

三田用水路跡に近い瑞聖寺の敷地に建つ物件だった。

三田用水路跡 東京都港区白金台3丁目 - 墳丘からの眺め

 

マンションから小日向台を西へ向かった。

 

こちらのマップ(文京区シビックセンターで展示されていたもの)で、中央部にある「すばらしいレンガ塀」とあるのを見たかった(矢印を逆方向に歩いた)

 

小日向台町小学校に着いたがレンガ塀はなかった。

奥は売り出し中の土地、手前の駐車場の入口には不自然な石畳があったので、もしやと思って撮っておいた。

 

帰ってストリートビューを見たら、やはりここだった。

 

同じ日に2度も消滅物件に出会うとは思わなかった。

つづく。