墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

旧海軍司令部壕 沖縄県豊見城市

前回のガンガラーの谷の写真を探したときに他の写真も見つけたので、今回と次回とで沖縄の別の2ヶ所を紹介します。

 

・旧海軍司令部壕

空港や県庁から車で15分ほどの丘の上にある。住所は豊見城(とみぐすく)市だが那覇市と接する地区で沖縄戦史では「小禄(おろく)の戦闘」が展開された場所になる。

 

下記はパンフからの要約。

海軍の沖縄方面根拠地隊司令部があった全長450mの壕。持久戦に備え一時は約4000人の兵士が収容されていたが、圧倒的な戦力を持つ米軍の進撃が続き、陸軍も南部へ撤退する中、1945年6月13日に大田実司令官以下の将兵はここで自決した。
戦後しばらく放置されたが遺骨収集後、1970年に司令官室を中心とした約300mが復元・公開された。

旧海軍司令部壕 [旧海軍司令部壕について]

 

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壕内にあった昭和20年6月4日~13日の小禄地区戦闘経過マップ。ピントが合ってなくて申し訳ないですが地図のほぼ中央に海軍司令部壕がある。

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5/12~18のシュガーローフの戦闘後、首里地区の戦闘、陸軍司令部の南部撤退が行われた約2週間を置いて、ここ小禄(おろく)が激戦地になった。


 

沖縄戦の概要は、那覇市のサイトがわかりやすい。

沖縄戦概説 | 那覇市 Naha City

 

詳しい戦闘過程は下記のサイトの労作で知ることができる。

http://www.okinawa-senshi.com/oroku.htm

 

壕内は、ひんやりしていたが湿気があった。

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ほとんどが通路で部屋的なスペースがあまりない。

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肩が壁に触れるような狭い通路もあった。

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幕僚室に続く通路。

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コンクリート漆喰で固めた当時のままの壁。

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生々しい、自決の手榴弾の跡もあり胸が詰まる。将兵以外はどうなったのか・・・

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以下はWikipediaより。

海軍司令官の大田実(1891~1945)は千葉県長生郡長柄町の出身だった。

沖縄戦では、海軍最先任者として沖縄根拠地隊司令官を務め、米軍上陸時に約1万人の部隊を率いて沖縄本島小禄半島での戦闘を指揮。陸軍の首里から摩文仁への撤退に際して、海軍司令部は作戦会議に呼ばれず、直前の5月24日ごろ(異説あり)になって初めて知らされたとされる。いったんは完全撤退と受け止め、重火器を破壊して南部への撤退を始めるが、後に「第32軍司令部の撤退を支援せよ」との命令を勘違いしたことがわかり、5月28日には再び小禄へ引き返した。6月2日に改めて「摩文仁へ撤退せよ」との命令が出されるが、大田は今度は従わなかった。命令を意図的に無視したのか、米軍に退路を断たれて撤退できなかったのかは不明である。

米軍の攻撃により司令部は孤立し、大田は豊見城にあった海軍壕内で拳銃で自決した。死後海軍中将に特別昇進する。自決する直前の6月6日に海軍次官宛てに発信した電報は広く知られている。当時の訣別電報の常套句だった「天皇陛下万歳」「皇国ノ弥栄ヲ祈ル」などの言葉はなく、ひたすらに沖縄県民の敢闘の様子を訴えている。

6月6日の電報は「沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」で結ばれる。

自分は「その部分を聞いたことがある」程度で、誰が打電したかもうろ覚えだった。

 

電文には当然ながら「斯ク戦ヘリ」の斯クの部分があり、施設のサイトには現代文訳もあったので下記に転載。

昭和20年6月6日 20時16分
次の電文を海軍次官にお知らせ下さるよう取り計らって下さい。
沖縄県民の実情に関しては、県知事より報告されるべきですが、県にはすでに通信する力はなく、32軍(沖縄守備軍)司令部もまた通信する力がないと認められますので、私は、県知事に頼まれた訳ではありませんが、現状をそのまま見過ごすことができないので、代わって緊急にお知らせいたします。
沖縄に敵の攻撃が始って以来、陸海軍とも防衛のための戦闘にあけくれ、県民に関しては、ほとんどかえりみる余裕もありませんでした。しかし、私の知っている範囲では、県民は青年も壮年も全部を防衛のためかりだされ、残った老人、子供、女性のみが、相次ぐ砲爆撃で家や財産を焼かれ、わずかに体一つで、軍の作戦の支障にならない場所で小さな防空壕に避難したり、砲爆撃の下でさまよい、雨風にさらされる貧しい生活に甘んじてきました。
しかも、若い女性は進んで軍に身をささげ、看護婦、炊飯婦はもとより、防弾運びや切り込み隊への参加を申し出る者さえもいます。敵がやってくれば、老人や子供は殺され、女性は後方に運び去られて暴行されてしまうからと、親子が行き別れになるのを覚悟で、娘を軍に預ける親もいます。
看護婦にいたっては、軍の移動に際し、衛生兵がすでに出発してしまい、身寄りのない重傷者を助けて共にさまよい歩いています。このような行動は一時の感情にかられてのこととは思えません。さらに、軍において作戦の大きな変更があって、遠く離れた住民地区を指定された時、輸送力のない者は、夜中に自給自足で雨の中を黙々と移動しています。
これをまとめると、陸海軍が沖縄にやってきて以来、県民は最初から最後まで勤労奉仕や物資の節約をしいられ、ご奉公をするのだという一念を胸に抱きながら、ついに(不明)報われることもなく、この戦闘の最期を迎えてしまいました。
沖縄の実績は言葉では形容のしようもありません。一本の木、一本の草さえすべてが焼けてしまい、食べ物も6月一杯を支えるだけということです。
沖縄県民はこのように戦いました。県民に対して後世特別のご配慮をして下さいますように。

 

450mの壕に4000人ということは1mに10人近い計算になる。 立ったままで睡眠をとっていたという。

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終盤は、外へ出たら即やられるという状況だったのではないか。

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 出口までが遠く感じられた。

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外の空気とともに平和のありがたさを吸った。下は那覇方向。

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海も良く見えて、とても気持ちがよい場所。

ということは逆に、米軍の艦船からもよく見えたということだろう。

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丘には沖縄特有の亀甲墓がいくつもあった。

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 本土ならば、まさに古墳が築かれるような場所のように思いました。