墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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みちのく民俗村(後編) 岩手県北上市立花

前回のつづきの、みちのく民俗村。

旧校舎の民俗資料館見学後は、園内の池の周囲に移築された古民家群を時計回りに巡った。(各所の説明は下記の公式サイトから。写真多めです、40枚超)

http://michinoku-fv.net/view.php

 

初めに豪雪地田の湯田地方(現西和賀町)にあった農家、旧菅原家へ。

 

南部領にあったが「曲り家」ではなく「直ご家(すごや):長方形の家」と呼ばれる形。明治後期の築。


豪雪対策としては屋根勾配をつけたり、「船枻造り」で軒の耐久力を高めたりしているそうだ。


馬屋が家の中にある「内馬屋」の形式。他の家々もそうだった。

 

その先には別の”旧菅原家”。伊達領(一関市川崎町薄衣塞の神)にあった上層農家で長屋門を備える。

 

主屋は江戸中期の築。当主は敷地内にあった金烏神社の神官も務めていたとのこと。

 

土間の様子。

大きな壁に小さな窓。窓がないと煙いが、大きく開けると寒くなるということか。

 

切れ込むような形で囲炉裏があった。

 

北壁側。2部屋越えて座敷を見通す。

 

主屋から見た長屋門。江戸末期の築。

 

現地説明板。

 

その先には旧佐々木家も江戸中期の築。旧伊達領の一関市大東町渋民続石にあった「葉たばこ栽培農家」で、江戸期その周辺は質のよい「東山たばこ」の産地だったそう。

 

室内では、葉たばこを吊るす横木を渡したり、差鴨居の上に壁をつくらず風通しを良くしたりするなど、葉たばこを乾燥させる工夫があるとのこと。

 

現地説明板。 

 

 

次の建物へ向かう道で小さな沢を越える。 

 

上記から振り返った西方向。そこが旧南部藩と旧伊達藩との藩境・間の沢(国指定史跡)だった。「前編」で見た挟塚(はさみつか)の下流になる。

 

旧南部藩側に入っての建物は、県北部の八幡平市荒木田(旧南部領)に所在した旧小野寺家住宅。

 

明治34年(1901)の築。桁行き24.5mある「直ご家(すごや)」だが、家の中に馬屋がある。旧南部領は馬の産地で馬は大切にされていた。

 

馬屋前から人の生活空間の方向。

寝部屋のように日常生活に欠かせない空間は狭く、「まだまだ江戸時代の封建的な考え方を踏襲していたことがうかがえます」とあった。

 

現地説明板。 

 

こちらは「がん小屋」 

 

その説明板。葬式にかかわる道具を納めるための小屋だった。

 

軒の高い建物は「演舞場」

 

客席側から見たところ。ロケもできそうな雰囲気。

 

その向かいには「曲が屋」の旧北川家住宅。遠野市街地から北東約7kmの土淵町にあった江戸時代の山伏の家だそう。

 

室内の様子。「遠野物語」には、当家が由緒ある山伏の家だったことやオシラサマを数多く祀っていたことが記されているそうだ。

 

その説明板。

 

最後に見た大型家屋も旧南部領の紫波郡矢巾町北伝法寺にあった旧星川家住宅。盛岡から10km南の紫波郡は、旧南部領の中でも特に曲り家が多い地域なのだそう。

 

”曲り”の接続部分の屋根が美しい。前方後方墳の「くびれ部」を思い起こした。

 

幕末の建築と推定され、主に明治以降のくらしを伝える民家とのこと。

 

馬屋のスペースは広い。

 

台所側から見た馬屋。南部曲り家の特徴は馬の飼育に便利なことと言われるそうだ。

 

旧星川家の遠望。

 

江戸期以前の建物(小屋?)も復元されていた。

おなじみ縄文期の竪穴住居。

 

こちらは平安期の竪穴住居。 

 

丸テーブルは現代モノだが、室内は縄文期とあまり変わらない。

 

妻側の扉上。これではかなり寒いだろう。

 

室町期の竪穴住居の復元もあった。

 

室町期になってもあまり変わらない印象。

 

説明板によれば北上市鬼柳町の台地で発掘された遺構から復元された、貴重な中世時代の例。

ほかにも、茶屋や水車小屋などもあったが、時間の関係で次の機会とした。 

 

北上駅で車を返す頃にはすっかり晴れた。2階の柱廻りがモダンな北上駅。

 

新幹線からは虹がみえた。