前回のつづき。 朝倉彫塑館の見学後の、界隈の路地巡り。
微妙なカーブが魅力的な小道。
板塀の家の先は谷中霊園。
もとの道(朝倉彫塑館の前の道)に戻り、観音寺の先を右折すると築地塀があった。
「平成4年度 台東区まちかど賞」のプレートが付いている。
台東区のサイトによれば長さは37.6m。国登録有形文化財。江戸期につくられた「練り塀」
土を焼く建築材料は江戸期までは瓦だった。煉瓦は、はじめは大砲などの鉄を精錬する炉の素材として、明治の近代化とともに広まった。下の扉は「潜り戸」というそうだ。
瓦と土とが交互に積まれる。ランダムなようでいて直線が平行に繋がっていて見事。震災(関東大震災)による崩壊箇所の補修もあるそうだ。
道の反対側の塀も瓦を埋め込んでいるが、瓦は意匠として使っている雰囲気だった。
反対側から。
その先は崖が。
右を向くと斜めに坂が貼り付いていた。
途中に階段も。学校敷地かと思ったがそうではなく、「谷中防災コミュニティーセンター」の前を通る公道だった。
突き当たった場所から振り返って。
道はそこから左に直角に曲る。「螢坂(ほたるざか)」の標柱があった。
側面には解説も。今は住宅街だが、かつては蛍の名所だった。
江戸時代、坂下の宗林寺付近は蛍沢と呼ぶ、蛍の名所であった。坂名はそれにちなんだのであろう。「御府内備考」は「宗林寺の辺も蛍沢といえり」と記し、七面坂南方の谷へ「下る処を中坂という」と記している。中坂は蛍坂の別名。三崎坂と七面坂の中間の坂なのでそう呼んだ。三年坂の別名もある。
蛍坂は子どもたちの遊び場になっていた。
坂を下って少し北に行くと小公園があった。
かつて岡倉天心が日本美術院を建てた場所だった。
東京都指定旧跡 岡倉天心宅跡 旧前期日本美術院跡
所在地:台東区谷中5-7 指定:昭和27年11月3日
日本美術院は明治31年(1898)岡倉天心が中心になって「本邦美術の特性に基づきその維持開発を図る」ことを目的として創設された民間団体で、当初院長は天心、主幹は橋本雅邦、評議員には横山大観、下村観山らがいた。
活動は絵画が主で、従来の日本画の流派に反対し、洋画の手法を取り入れ、近代日本画に清新の気を与えた。
この場所に建てられた美術院は明治31年9月に竣工した木造二階建で、南館(絵画研究室)と北館(事務室・工芸研究室・書斎・集会室)からなり、附属建物も2,3あったといわれている。明治39年(1906)12月に美術院が茨城県五浦(いずら)に移るまで、ここが活動の拠点となっていた。
昭和41年(1966)岡倉天心史跡記念六角堂が建てられ、堂内には平櫛田中作の天心坐像が安置されている。
平成11年3月31日建設 東京都教育委員会
厳かな六角堂。
五浦の六角堂も再建されてよかった。
五浦六角堂 (北茨城市) | 観光いばらき(茨城県の観光情報ポータルサイト)
こちらの六角堂の中には平櫛田中による天心像が安置されている。
公園を出て路地をうろうろ。
次々と魅力的な小道が現れる。
細道+くねくね+暗渠のセット。
別の季節、別の時間帯にも訪れてみたい魅力的なエリアだった。