墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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旧東京第一陸軍造兵廠・東京砲兵工廠銃砲製造所(旧陸上自衛隊十条駐屯地275 号棟)北区中央図書館(赤レンガ図書館) @東京都北区十条台

先日読んだこちらの本で取り上げられていたエリアのひとつを早速探訪してみた。

 

選んだのは十条・王子エリア。京浜東北線と埼京線がつくる三角形の上部。

かつてこの一帯は広大な武器製造工場だった。

 

ちなみに赤羽ー池袋ー田端を直線で結ぶ三角形の面積は11.5平方キロメートル。渋谷ー新橋ー大崎の三角形12.1より少し小さい程度。

(グーグルマップはヘロンの公式を使わずとも、点で結んだ面積が表示される機能があった。これは便利。すごい機能)

 

まずは東十条駅からスタート。昨秋に富士塚古墳探訪の際に初めて利用した駅。

 

改札を出て右に文化財級の鉄橋がある。

1895年(明治28年)に東北本線荒川橋梁として架けられていた橋の一部が1931年(昭和6年)に移設された。

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下の写真右下の銘板に「COCHRANE&C・1895・ENGLAND」と書いてあるはずだが、またも撮り逃し。

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当初からであれば、120年の長きに渡ってトラスを支えている巨大ネジ。

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 橋のたもとの地蔵さまと庚申塚。

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その脇には、一端下りて上る見事なクネクネ坂があった。

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坂を降りて上って住宅街を抜け岩槻街道(都道460号)に出る。北に向かえばすぐに富士塚古墳があるが今回は南方向へ。こちらも道路沿いにある地福寺。

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 参道にあった説明板。軍の施設が来る前は茶畑が広がっていた。

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かつて王子は都下でも有数の農地で、米や麦のほか、お茶の栽培が盛んで、「茶は特に王子の名物であった」と「王子町誌」に記されている。

日清・日露戦争以後、わが国は工業国家建設に向け次々と向上を建設、次第に王子から農地がなくなり、お茶の樹が姿を消していった。

こうした変化を前に、お茶の栽培に励んだ郷土の歴史を次代に伝えたい、と考えた当山中興、第六十九世・三輪照宗住職は、昭和31年、戦災により焼失した庫裡を再建した折り、考案したのが茶の生け垣をあしらった参道で、これが後に地福寺の「茶垣の参道」と称されるものである。

これによりお茶の樹は常時、参拝者の目に触れることとなり、王子とお茶の関わりに気づいてくれる人もいるにちがいない、と推測したのである。

参道に残る数本のお茶の樹は、栽培盛んなりし頃の王子の俤をわずかに今に偲ばせている。

平成15年8月吉日 十條山 地福寺

が、どれがお茶の樹かわからなかった。

 

その先、細道を入って南へ向かうと陸上自衛隊十条駐屯地に出る。この敷地の中、柵越しに、かつての工場のレンガ壁の一部が残っていた。

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旧東京第一陸軍造兵廠・254号棟

 柵の間から。妻側の壁が残るだけ。初出の本の158頁から詳しく書かれている。

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説明板があるのがわかるが内容は読めない。

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横から。コンクリートで補強されているようだ。

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お隣は中央図書館前の公園。ボールを取りに柵を乗り越えた子供もいたのだろう。

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広場や遊具もある公園だが樹木の繁る一角も。その奥に・・・

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殉職慰霊碑がひっそり立っていた。

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公園の南の端には北区立中央図書館(赤レンガ棟)

旧東京第一陸軍造兵廠第一製造所(東京砲兵工廠銃砲製造所) 

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2棟並ぶレンガ建物の手前側は、背中に箱型ビルを背負っている形になっている。右奥は陸自施設。

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手前の東側の道路からは数メートル低くなっているのは、もとの地形を掘り下げたからか。

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下記はいただいたパンフレットより。

赤レンガ倉庫について

赤レンガ倉庫は、北区の近代産業の歴史や当時の建築技術を知る上で貴重な建造物です。ガラスを取り入れた近代建築と融合し、中央図書館の一部となって生まれ変わりました。

建物名:東京砲兵工廠銃砲製造所(旧陸上自衛隊十条駐屯地275号棟)

用途:工場・倉庫

建設年:1919年(大正8年)

構造・階数:レンガ造り・平屋建

内間柱:鉄骨ラチス造

小屋組:鉄骨トラス造

明治38年(1905)、当時、小石川(現・文京区)にあった東京砲兵工廠銃砲製造所が、日露戦争による弾丸不足を補うために、ここ十条台の地に用途を求め、工場を拡張させて移転してきました。そして、大正8年(1919)、弾丸鉛身場として建設されたのが、この赤レンガ倉庫です。その後、日本陸軍の編成替えにより組織の名称は次々と変わり、昭和15年(1940)には、東京第一陸軍造兵廠第一製造所となりますが、終戦にいたるまで、この地で小銃や機関銃に用いる弾薬や薬きょう、火薬類の製造が行われていました。

昭和20年8月に戦争が終わると、第一製造所の諸施設はアメリカ軍に接収されてTOD(東京兵器補給廠)第4地区となり、主にアメリカ軍の戦車整備工場となりました。そして、昭和33年にその一部が日本に返還されると、翌34年には陸上自衛隊が入所し、武器補給処十条支所として活動を始めます。

その後、防衛施設再編計画にともない、赤レンガ倉庫を含む一部が北区へと移管され、平成20年(2008)に北区中央図書館に生まれ変わりました。

 

丸型の明かり取り(通気口?)が教会建築のような印象でもある。

 

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内部の構造。屋根は鉄骨の梁(鉄骨トラス)で支えられている。

無料の休息スペースと有料のカフェのコーナーに別れている。ガラス壁の先は図書館。

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図書館は内部撮影禁止で撮れなかったが、内部にレンガ壁があったり重厚な鉄骨柱が残っていたりと、見ごたえがあった。

「BS 3×8 SEITETSUSHO YAWATA ヤワタ」と文字が刻印された鉄骨(ラチス柱)もあった。中層のビル建築にも耐えそうな太くて頑丈な鉄だった。

 

建物は妻側の正面壁だけでなく、横長辺の壁もきれいに保存されている。

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屋根の梁をささえる鉄棒の先端。

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建物南端、反対側の正面も、ぶち抜き廊下はあるものの良く残っていた。

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左が陸自駐屯地、右が図書館。

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長さは60m弱。

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かつての工場群はここだけになってしまった。それでも、同じ場所に形を留め残されて利用されていることは有難く素晴らしいことだと思う。

初出の本に掲載されている米軍の航空写真には整然とだが密集した建物群が認められる。

東京陸軍造兵廠は、第一と第二をあわせ206haで、TDL51haの4倍、皇居140haの約1.5倍の広さ。

戦争をするためは当然ながら武器をつくる必要があった。日露戦争の日本海海戦勝利の一因となった下瀬火薬の製造所があったのもこの近辺だったそうだ。

 

規模は全く異なるものの、古代ヤマト王権の軍需品製造・修理の補給基地だった鹿の子史跡が思いだされた。

つづく。