前々回のつづき。
ユーカリが丘線のループ内エリアを彷徨って再び井野駅に出た。
八千代台の店でのipad修理はとっくに終わっている時間だったので店に戻ろうとも思ったが、ちょっと物足りない感があったので、「ふさの国」で井野駅の南側に表示されていた「井野長割遺跡(いのながわりいせき)」へ寄ってみることにした。(前方後円墳「跡」の表示もあったので)
住宅街の先に見えた木立の方向に歩いていくと、傾斜を上がった先に標柱と広場があった。
なんと国指定史跡だった。後で調べたら千葉県下27ヶ所の国指定史跡の内の縄文遺跡12ヶ所のひとつ。他の11ヶ所の縄文遺跡はみな「貝塚」なので、「ムラ」が中心となっている遺構としては貴重な場所ではないか。
文化庁のサイトにも説明がある。
現地では詳細な解説が板に貼られて立っていた。測量図も載っていて、遺跡が、東側が切れ落ちた斜面になっている台地の上にあることがよくわかった。
以下に一部を転載。
国史跡井野長割遺跡
環状盛土遺構と計画的なムラづくり
井野長割遺跡は、印旛沼南岸の台地上に位置する縄文時代後期(今から約4000~3000年前)に栄えたムラの跡です。
昭和44年(1969)の発見以来、ごく一部を発掘調査したに過ぎませんが、その重要性から平成17年(2005)3月2日に国の史跡に指定されました。まだ多くの謎を秘めていますが、ここでは縄文の盛土遺構を現在でも見ることができます。
雑木林の中に見える土の盛り上がりに囲まれた広場のような「中央窪地」、その中の土の盛り上がり、ムラの中央から外へ放射状に伸びる複数の「道」、そして「道」の起点には、計画的に整備されたムラ。これらの遺構は、私たちに当時の様子を豊かに想像させます。
なぜ、井野長割遺跡の縄文人は、この場所に環状盛土を残したのでしょうか。みなさんも一緒に考えてみませんか。
A 環状盛土遺構と中央窪地
環状盛土遺構は縄文時代の人々が100年以上の時間をかけて土を盛り、その盛土群が最終段階でドーナツ状に配置されたものと推定しています。現況で最大比高差約2mです。現在の地形と過去の地形測量図等から復元すると、当時の規模は、南北約160m、東西約120mと推定されます。井野長割遺跡では、ドーナツ状に配置された外盛土(M1,2,5,6,7)とその内側の内盛土(M3,4)によって構成されていました。M5~7は現在失われています。
「中央窪地」は、環状盛土遺構に囲まれた空間で、ムラの中心に位置する広場と考えられます。この部分の土を削り取って盛土をしたり、谷を埋め立てたと思われます。広場のような使われ方をしていたのでしょう。
(中略)
遺跡範囲のうち、学校敷地部分は、ほとんどが失われていると思われていました。しかし、平成14,15年度の発掘調査によって想像以上に遺跡の保存状態が良好なことが判明しました。
「ムラ」の中心から南と北西に向かって延びる「道」を基準として、貯蔵、埋葬、居住の土地利用が区分されていました。
(後略)
説明にあるM(マウント?)番号と現地の盛土と付き合わせることは難しかったが、地面に緩やかな凹凸があることはよくわかった。「道」や「マウントの位置」も表示板があると、より想像力を働かせられると思う。
広場の奥から標柱のあった北側方向。
以下は「印旛郡市文化財センター」http://www.inba.or.jp/index.htmlのサイトにある、 2.井野長割遺跡の特徴より。(太字は自分がつけました)
遺跡を最も特徴付けるのは縄文時代後・晩期に構築された「環状盛土(かんじょうもりど)」である。盛土とは縄文人が土を盛り上げて造った高まりで、環状盛土遺構は遺跡中央の窪み(中央窪地(ちゅうおうくぼち))に沿って盛土が環状にめぐる遺構である。環状盛土遺構は北海道から関東まで、時期的には縄文早・前期頃から認められるが、井野長割遺跡の場合は、盛土が古墳のように1つずつ独立して連なっているところに他の遺跡のどこにもない特徴がある。また、谷頭および斜面地の埋め立ても行った形跡があり、縄文人の大土木工事と位置づけられる。
この盛土は何なのかが非常に気になったが、現地の解説書やサイトを見てもよくわからなかった。が、文化財センターサイトの別の箇所に、この盛土のことをテーマとするシンポジウムが、まさにこの日に開催されていたことを、エントリを書いている今発見。あと一週間早く遺跡を訪れていたら・・。次回印旛郡市文化財センターへ行ったときに報告書があれば入手したい。
http://www.inba.or.jp/news/newsindex20150121.html
上記サイトから
井野長割遺跡国史跡指定10周年シンポジウム
縄文時代のムラと盛土
佐倉市の西部に位置する井野長割遺跡は、今からおよそ4千年から3千年前の縄文時代のムラのあとです。竪穴住居や墓、貯蔵穴、道が規則的に配置されていること、広場を囲むように盛土がめぐる状況が良く残されていることから、平成17年3月に国史跡に指定されました。
このたび、指定10周年の節目を迎えるにあたり、「縄文時代のムラと盛土」をテーマにシンポジウムを開催します。今回は、井野長割遺跡の盛土調査の成果のほか、近年盛土の調査研究が蓄積されつつある北海道の事例、現在発掘調査中の長竹遺跡(埼玉県)の事例を紹介します。また、パネルディスカッションではこれらの事例報告をふまえ、盛土がムラの中でどのような性格をもっていたのか、そして、盛土研究からどのような社会を読み取ることができるのかを論点に取り上げます。日時:平成27年2月7日(土)10時~16時(9時30分受付)当日受付・無料
場所:志津コミュニティセンター 佐倉市井野794‐1
プログラム:
・記念講演 「縄文人のムラづくりと盛土形成の話」
講師:山田昌久(首都大学東京教授)
・基調報告 「井野長割遺跡の盛土調査」
報告:小倉和重(佐倉市教育委員会文化課)
・事例報告1.「埼玉県下の盛土調査」
報告:吉田稔(埼玉県埋蔵文化財調査事業団)
2.「北海道の盛土遺構」
報告:福井淳一(北海道埋蔵文化財センター)
・パネルディスカッション「縄文時代のムラと盛土」
司会:山本暉久(昭和女子大学教授)・主催 佐倉市教育委員会
・後援 (公財)印旛郡市文化財センター・千葉県教育委員会・印旛地区文化財行政担当者連絡協議会
遺跡の南側に向かって歩いていくと、先には造成地が広がっていた。
縄文から現代へ。削平された前方後円墳もこのあたりにあったのだろうか。
歩道上には近辺の案内地図があった。
上の「現在地」から北側の眺め。左が井野長割遺跡。右が西ユーカリが丘5丁目の住宅地。
「全体案内図」もあってとても親切。この日に訪れた場所を復習できた。
高層マンションに向かって歩いていく。
造成中の区画入口に「MIRAIA GARDEN HILLS」の表示があった。
高層マンションの下あたりから井野長割遺跡を振り返った。右の空き地はイオンタウン商業施設になる。
その後、地区センター駅に向かってさらに歩いた。
ユーカリが丘線を一回り乗っていなかったので、地区センター駅から再度乗車。
ホームから北側方向。
ホームから南側方向。正面奥のベージュの建物がユーカリが丘駅。
再び「こあら1号」に揺られて一周15分の旅をしました。
この日、鉄道系の方を4,5人お見かけしましたが、みなさんニコニコ顔でした。
ユーカリが丘編、以上で終了です。