墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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十善の森古墳 福井県三方上中郡若狭町天徳寺

リゾート施設の名前のような「十善(じゅうぜん)の森古墳」は、前回の向山1号墳の南西1.2㎞の北川左岸、国道27号沿いのほぼ平地に立地する墳長68mの前方後円墳。

 

長軸を東南棟に向けますが、後円部の一部が国道で削られています。

 

後円部を道路の反対側から。

 

後円部先端側。

 

くびれ部あたりに説明板があります。

十善の森古墳
全長68mの前方後円墳で、6世紀初めに造られました。後円部と前方部にそれぞれ違う形態の横穴式石室があります。周濠の一部には石室へ向かうための陸橋があることが確認されています。副葬品は、大陸からつながる海の道を通じて運ばれたとされる金銅製冠・履、鏡、馬具、玉などです。県史跡。

 

QRコードのリンクが下記。

十善の森古墳 | 日本遺産 御食国若狭と鯖街道 海と都をつなぐ若狭の往来文化遺産群

 

上記の解説には後円部の石室長6.45mで、羨道と玄室との区別が無いとありますが、下記の若狭町歴史文化館のパンフには、「後円部には主軸に直交する羽子板状の平面形をした玄室と、玄門部から「八」の字形に短い羨道を持つ」とありました。

https://scratchzu.xsrv.jp/img/con02/kiji022409/zz022409-rekisibunkakan.pdf

パンフには玄室玄門と、復元された金銅製冠の写真が載っていますが、若狭町歴史文化館へ行くと、大きな解説パネルがありました。

 

この歴史文化館では、出土した金銅製冠の破片、それを復元したもの、その他の馬具など、大変貴重な出土品を見ることができました。必見の博物館だと思います。

(出土品の撮影は個人利用に限るとのことでした)

 

 

後円部、前方部の両方にある横穴式石室は国道側が開口部なのですが、現在は埋め戻されています。

 

こちらの説明は判読困難の文字も。

 

前方部右裾側から墳丘に上がらせていただきました。

 

前方部に上がって後円部側、東南東方向。

 

南東方向を広角で。左奥の峠の先に琵琶湖があり、直線で17㎞ぐらい。

 

北東方向。

手前がくびれ部、その先にJR小浜線、さらに向こうに北川。

中央右の丘陵先端に向山1号墳があります。

 

中央やや左のJR線の向こう側に、小さく丸山塚古墳跡の石碑が見えています。

 

後円部に移り、西北西方向。

 

広角で。若狭湾までは一直線に10㎞ほど。

 

くびれるカーブがよいです。

 

農道に回って北側面を。左が前方部、右が後円部。

 

後円部側から。右奥へ前方部。

向山1号墳(未到達) 福井県三方上中郡若狭町安賀里

近寄れなかった大谷古墳の後は、ひとつ西の丘陵南端の向山(むかいやま)1号墳を訪ねましたが、またしても。

 

向山1号墳は、大谷古墳のそばを流れている鳥羽川の下流右岸の立地。

正面の丘上です。県道22号にかかる橋から。

 

橋から東方向。赤屋根の奥が脇袋古墳群がある谷戸で、右奥が熊川宿を経て琵琶湖へ至る街道(国道303号)になります。

 

向山1号墳がある丘の周囲も金網フェンスで囲まれていました。連続未到達。

 

崩壊気味の急斜面のようなので、フェンスが無くてもこちら側から登るのは厳しそうです。

 

「若狭町古墳マップ」によれば、向山1号墳は5世紀中頃に造られた全長48.6mの前方後円墳で後円部に本州最古の横穴式石室、前方部には武器埋納施設を持ち、武器・武具・馬具・装身具類などの豊富な副葬品や、円筒埴輪、形象埴輪を出土。
尾根上には主墳の1号墳のほかに方墳1基、円墳7基が並んでいるそうです。

https://www.town.fukui-wakasa.lg.jp/material/files/group/17/kofun-map.pdf

 

若狭町歴史文化館にて、非常に精巧で美しい金製耳飾りや、希少な3連玉加工の首飾りなどが見られました。

 

文化館にあった向山1号墳の解説と復元ジオラマ。

向山1号墳
全長48m 後円部径30m 前方部幅27m
堤と下吉田の間の山尾根に造られた古墳で、全体で9基の古墳の主墳になるものです。昭和62・63年に発掘調査されました。その結果、2段に造られ、上段には15㎝ほどの川原石、下段には30㎝ほどの山石を用いた葺石が全面を覆っていました。前方部と後円部のくびれ部には埴輪が1本立てられて、その外側の台状の平坦な高まりからは土器がたくさん発見されています。ここは古墳のお祭りの場所であったと考えられています。
石室の調査では、金製耳飾や甲(よろい)、鉄刀などが多数見つかりました。そして、その石室は、本州では最も早い時期に「横穴式石室」の文化を受け入れた古墳であり、前方部には武器だけ納めた施設も備えていることもわかりました。
5世紀中頃(城山古墳に次いで)の古墳と考えられています。