墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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上ノ塚古墳(脇袋古墳群) 福井県三方上中郡若狭町

今回からは2022年11月下旬に訪ねた若狭墳行になります。

若狭湾の小浜から琵琶湖へ抜けるルートで、北川に沿って幅が1㎞ほどの谷地形がまっすぐ10㎞ほど続くエリアです。

 

上ノ塚(じょうのづか)古墳がある脇袋古墳群はその最も南東側(から、ちょっと入った谷戸)に立地。

 

その谷で、上ノ塚古墳は堂々とした墳丘を見せていました。

 

その背後にある、脇袋古墳群の解説。

脇袋古墳群
わが上中町は、若狭のほぼ中央に位置し、古代より日本海と畿内を結ぶ交通・文化の要衝として、また北陸と山陰に通ずる分岐点として、極めて重要な場所でありました。
脇袋古墳群は、その中心にあり、古い記録によれば七つの塚が所在したと伝えられています。また、この入墓の「膳部山」の名にもその歴史の名残をとどめるように、若狭の国造「膳臣」一族をまつる墳墓と考えられてきました。ここは、まさに王家の谷でありました。
さらに、上中町には国指定史跡の上・下船塚古墳をはじめ、近年調査された向山古墳群などの前方後円墳や円墳などの遺跡が多く、また近くには古代の「屯倉」を思わせる「三宅」の地もあり、この土地の歴史の重みを感じさせます。
西塚古墳(昭和10年12月24日 国史跡に指定)
全長約74m、後円部径39m、前方部幅47m、高さは前方部が後円部よりやや低くなると推定される南面する前方後円墳であり、葺石・埴輪・盾形周濠を備えています。しかし、現在では、大正5年の鉄道敷設に伴う墳丘からの採土工事により、後円部と前方部の一部を残すのみとなりました。
主軸にほぼ直交する石室は竪穴式石室といわれましたが、実際は横穴式石室とみられます。この石室からは先のような多くの出土品が発見されました。
5世紀後葉に造られたこの古墳の被葬者は、日本書紀の記載と出土品の符合から、膳臣斑鳩その人ではないかともされています。
【主要出土遺物】(現在は宮内庁に保管されています)
須恵器 中国製神人画像鏡 仿製四獣鏡 武器(鉄剣 鉄鉾 鉄鏃) 武具(小札鋲留眉庇付冑 小札鋲留衝角付冑 頸甲 肩甲 横矧板鋲留短甲) 馬具(鉄地金銅張鏡板 同辻金具 同剣菱形杏葉) 農工具(鉄斧) 装身具(金銅製帯金具 銅鈴 銀鈴 金製垂飾付耳飾 佩砥:はいと 玉類)
上ノ塚古墳(昭和10年12月24日 国史跡に指定)
全長約90m、後円部径51m・高さ9m、前方部幅48m・高さ7mを測り、北面する、若狭地方最大の前方後円墳です。現在も原形をよくとどめており、かつての周濠の存在も確認できます。葺石については不明ですが、埴輪の存在が確認されています。5世紀代に造られた古墳です。
中塚古墳(昭和10年12月24日 国史跡に指定)
全長約60m、高さは6mほどあったといわれています。この古墳も西塚古墳と同じく南面する前方後円墳であり、他の二古墳と同様、盾形の周濠がめぐり、埴輪の存在も確認されています。5世紀代に造られた古墳です。
以上3基の前方後円墳のほか、円墳と思われる糠塚古墳、墳形未詳で埴輪と葺石を備えた上下の森古墳などが所在します。
上中町教育委員会

 

説明板の写真。上ノ塚古墳、中塚古墳、糠塚古墳、西塚古墳の位置関係がわかります。

 

説明板によって墳長表示が違いますが、最も新しい説明板には100mと記されていました。

若狭街道 御食国若狭の原点と鯖街道のメインルート
上中古墳群 上ノ塚古墳
5世紀初めに造られ、若狭地方最大で全長100mを誇ります。表面には葺石、埴輪を備え、周りには盾形の周壕がめぐっています。若狭が東アジアの表舞台に登場したことを告げる前方後円墳といえます。被葬者であるとされる御食国ゆかりの膳臣一族の墓と考えられています。国史跡。

上ノ塚古墳 | 日本遺産 御食国若狭と鯖街道 海と都をつなぐ若狭の往来文化遺産群

 

見えているのは前方部右隅(北西)側。

 

大きな標柱。

 

昔(?)の説明板では全長は80mと。

上之塚古墳 国指定史跡
この古墳は若狭地方最大の典型的な前方後円墳で原形がよく保存されており、その周囲の水田は堀の跡で前方部は北に後円部は南にあり全長80m、後円部の径50m、高さ約6mで前方部は後円部より約1m低くその幅は約40mである。
若狭の国造(クニノミヤツコ)の膳臣(カシワデノオミ)の墳墓とも言い伝えられ、脇袋古墳群(七つ塚古墳群)の代表とも言われている。民有地で畑地に利用されている。

 

前方部に上がって後円部方向(南)を。

 

振り返った前方部先端(北)方向。

 

東方向。古墳の周りを家々が囲んでいる雰囲気がありました。

 

墳丘の東側のくびれ部。周濠がきれいに残っています。

 

後円部墳頂は広くて平ら。

 

後円部の先端方向。

 

後円部墳頂から東側。中央の民家の奥の竹林は、中塚古墳の墳丘が残っているところでした。

 

後円部から振り返った前方部。

 

西北西方向に続く谷地形。北川が流れ、JR小浜線、国道27号が海まで続いています。


ズームで。右の丘陵に向山1号墳があり、北川左岸の左の山裾には、十善の森古墳、上船塚・下船塚古墳、白髭神社古墳などの前方後円墳が次々と連なる、前方後円墳が密な谷。

 

墳丘を北東側から。


スマホ広角で。周濠が大きく感じました。

 

後円部先端の南側から。

牧野富太郎記念館(高知県立牧野植物園) 高知県高知市五台山

高知では牧野植物園も訪ねました。

高知市街の南東、五台山の頂きにあり、高知駅南口からMY遊バスで約30分のアクセス(車では20分)

 

内藤廣の設計による牧野富太郎記念館(本館と展示館)を見たかったので立ち寄りました。

グーグルアースで左に見える本館には牧野博士の蔵書などを収蔵する牧野文庫や図書館、ホールなどがあり、右の展示館では牧野博士の生涯・偉業に関して、資料やジオラマ、映像などで触れることができます。

 

本館2階が入口です。入園料一般730円。

 

今度の春からの朝ドラは牧野富太郎がモデルだそうです。

 

1階から吹き抜けの中庭を囲むように広いテラスがあり、その周りを建物が囲みます。

 

三角屋根の回廊が連続し、その下に部屋が組み込まれています。

 

部屋の中で見上げた天井。カーブしていますが船底のような感じ。

 

ショップとカフェのある棟。カフェの天井はコンクリでした。


渡り廊下を伝って展示館へ。


中庭から見る展示館。

 

上記の奥側からの眺め。池の配置が絶妙です。

 

その内部。大屋根の下、仕切り壁で複数の展示スペースが。

 

とてもリアルな展示も。

 

大屋根は外の階段テラスへも続いていました。

 

建物脇の展望スペースからは、北東方向が見渡せました。

 

 

そのほかの旅画像。

泊まった高知会館の部屋の窓から見た高知城(右上)

 

高知市春野郷土資料館へ行きましたが、第3金曜日で休館。

 

その近くの、人気の鰻店「かね春」。朝9時半に掲出される受付表に名前を記入しました。

 

贅沢させていただきました。最高でした。

また行きたいです。


そして桂浜。

 

浜の丘上に立つ坂本龍馬。

この一週間後に、ここに雪が積もっているのをニュースで見て驚きました。

 

高知県立埋蔵文化財センター。このときは古墳時代に関する展示は見当たりませんでした。

 

表のピンクが古墳時代の遺跡。左下の宿毛市の古墳もいつか訪ねたいです。

 

高知県立美術館。

 

素敵な建物でした。1993年竣工、設計・監理 は日本設計、環境建築設計事務所、山本長水建築設計事務所。

 

ゴージャスな階段。

こちらの企画展を鑑賞。状況劇場のポスターが懐かしい感じでした。ドキュメンタリー動画に馬の首が出てきてびっくり。

合田佐和子展|イベント|高知県立美術館

 

高知空港から南東に4.5㎞の赤岡町にある絵金蔵にも。


幕末の絵師・金蔵の作品を(下記の写真のものはレプリカですが)迫力ある雰囲気の中で味わえました。

 

土佐藩城下の新市町(現在のはりまや町2丁目)に髪結の子として生まれた金蔵は、幼い頃から画才があり、江戸遊学などを経て土佐藩家老桐間家の御用を勤める狩野派の絵師となったものの、贋作事件に巻き込まれて(真相はわからず)て城下追放となり、各地を放浪後に赤岡に住んでいたおばを頼って滞在し、町の旦那衆の求めに応じ「芝居絵屏風」を描いて広く親しまれたとのこと。

絵金蔵、3つの使命 - 絵金蔵 公式ホームページ

 

2023年4月から大阪で企画展が開催されるようです。

幕末土佐の天才絵師 絵金 | あべのハルカス美術館

 

帰路の機窓から。真ん中席だったので一瞬腕を伸ばして撮らせてもらいました。