墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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甲塚古墳 福島県いわき市平荒田目甲塚

前回のつづき。

白水阿弥陀堂の拝観後、車で30分ほど東にある国指定史跡・甲塚(かぶとづか)古墳へ向かった。

田んぼの中に島のように存在していた。

 

古墳を目指すように農道があり、半分巡って反対側へ続く。

甲塚古墳の墳丘は西南西にある大國魂神社の飛び地で、神社のサイトの由緒には以下のように記されていた。

大國魂神社の周辺は古代文化の栄えた地であり、中田横穴古墳(沼ノ内・国史跡)、八幡横穴(平高久・市史跡)、天冠男子像埴輪(平下高久出土・国重文)、夏井廃寺跡(平下大越・県史跡)、根岸遺跡(平下大越・石城郡衙跡に比定)、砂畑遺跡(平菅波)、小茶園遺跡(平山崎)、そして当神社飛地境内の甲塚古墳(平荒田目・国史跡)などが知られております。甲塚は石城国造の建許呂命の墳丘であるといわれます。

http://ookunitama.jp/yuisyo/index.html

 

西側からのアプローチ。近づくにつれ高さを増す。

 

畦道から、稲穂と墳丘と。 

 

立派な説明板があった。

国指定史跡 甲塚古墳
甲塚古墳は、夏井川河口に近い沖積地につくられた墳丘直径37m・高さ8.2mの古墳です。これまでのところ、本格的な調査が行われていないため、古墳の形状や内部構造、築造された年代などは明らかになっていません。
いわき市内の金冠塚古墳(錦町)、五理内古墳(平下荒川)は古墳時代後期の6世紀後半から7世紀前半ごろにつくられたものであるとされており、甲塚古墳も両古墳と同時期につくられたものと推定されています。
国道6号常磐バイパスの建設工事に伴う発掘調査によって、甲塚古墳の周辺からは多くの古墳跡や建物跡などの遺構、土師器、円筒埴輪、木簡などの遺物が出土しています。また、甲塚古墳の西南の丘陵の上には、延喜式内社大國魂神社が鎮座していることなどから、この地は密度の濃い歴史的な環境が育まれていたものと考えられます。
指定:大正12年3月7日
所在地:いわき市平荒田目字甲塚43
所有者:大國魂神社
いわき市教育委員会

 

説明板にあった昭和46年当時の写真。非常に立派な一本松が墳頂にある。 「八方にらみの松」と呼ばれた黒松の巨木だったが枯れ死したそうだ。

 

本格的調査がされていない径37mの円墳が国史跡である理由は、大國魂神社との関係などもあるのだろうが、この見事な松があったからではと憶測してしまった。

 

墳裾を巡ってみる。

 

一面が腰高ほどの草に覆われている。

 

上り口は見つけられなかった。

 

ぐるりと回って東側から。

 

パノラマで。墳丘の左後ろの木立が大日國魂神社の境内森になる。

 

いわき市考古資料館で購入した”ポシェットブック”「いわきの遺跡巡り」によれば、近年平面実測図の分析から、本古墳は円墳ではなく方墳ではないかと推定されているとのこと。グーグルアースで見ると、確かに角があるようにも見える。 

近隣の砂畑遺跡からも墳丘跡が検出されることから、築造当時は甲塚を中心に20基前後の古墳群があったと推定されるそうだ。

 

甲塚古墳から300mほど北西の、信号脇にあった「水守神社」が気になったので参拝した。

 

鳥居をくぐると水路がある。

 

愛谷江筋(あいやえすじ)という江戸期(1674年)に開削された農業用水路。平藩主の命で三森治右衛門(みもりじうえもん)が造った全長18kmの水路で、水守神社は三森治右衛門を祀ったものだった。

 

参道の石段は結構急だった。

 

台風が多かったので倒木も多い。

 

立派なお社だった。

 

こちらが本殿。

 

石段の上で。右方向に甲塚古墳があるが繁みで見えなかった。

奥に海が写っていたことに後で気づいた。

白水阿弥陀堂 福島県いわき市内郷白水町広畑

10月13日の土曜日、たまたま前日に「考古学のおやつ(現地説明会や展覧会など膨大な情報が集まっている個人サイト)」を拝見していたら、いわき市の中田横穴の公開情報があったので行ってみることにした。

http://www.ops.dti.ne.jp/~shr/dtct/fl/2018x.html 

 

車で片道200km超、2時間45分。

いわきへは15年程前に湯本温泉に行ったきり。地元の名所は見ていなかったので、初めに国宝建築の白水(しらみず)阿弥陀堂へ立ち寄った。 

 

8時過ぎに出発したので到着は11時近く。

駐車場から阿弥陀堂のある方向を。

 

平安時代後期、三方を囲む山を背景に浄土庭園が築かれた。 

 

周辺も国の史跡に指定されている。

国指定史跡 白水阿弥陀堂境域
白水阿弥陀堂境域は、昭和37年の発掘調査により、東西池の汀線・石組・洲浜・中島にかかる橋跡が確認され、浄土式庭園を伴った寺院であることが明らかになりました。
11世紀頃から、釈迦入滅2千年後は、世が暗黒の世界になるという末法思想が普及し、王朝貴族は西方浄土の光明を求めて阿弥陀堂を建て、浄土に往生することを願いました。白水阿弥陀堂境域の浄土式庭園も、このような思想的背景によって造営され、経典の説く思想をこの世の地上に具現したものと考えられています。
白水阿弥陀堂境域は、お堂と浄土式庭園、加えて自然空間をとりまく環境がよく保持されており、当時の東北地方南部の仏教文化を考える上で貴重なものであることから、昭和41年に国の史跡に指定されました。
その後昭和43年以降、周辺の土地公有化と、庭園復元事業が行われ、12世紀の創建当初の姿に復元されました。
指定 昭和41年9月12日 いわき市教育委員会

 

一直線の参道を進むと、阿弥陀堂の三角屋根が近づいてくる。

 

最初の橋をわたると受付があり拝観料一般500円を納める。月に1,2回休みの日がある。

http://shiramizu-amidado.org/access.html

 

 

国宝 願成寺 阿弥陀堂(平安時代1160年建立)の立て札。

 

建物は山裾にあるが、池の島を橋で渡って近寄っていく。

 

端正な屋根は宝形造り。

 

上から見ると正方形。

 

遠望では背の高かった屋根が近づくと低くなっていく。

 

杮葺きの屋根のシャープな線。

 

背が高いと思った屋根も、近づくと軒の後ろに隠れてしまった。

 

軒下の組物の様子。

 

ここを建立したといわれているのは奥州平泉・藤原清衡の娘、徳姫。

夫の岩城則道の没後、剃髪して徳尼御前(とくにごぜん)となったが、白水(しらみず)の地名は平泉の泉を「白」と「水」に分けたもの(平の地名も平泉の「平」)であり、白水阿弥陀堂は平泉の金色堂にならっていると伝えられるそうだ。

 

こちらのNTT東日本福島支店のサイトの情報が、適度に詳しくわかりやすかった。

https://www.ntt-east.co.jp/fukushima/fbrari/032/index.html

 

見学者はお堂の中に入って、阿弥陀三尊、持国・多聞天王(いずれも国重要文化財)を拝観することができる。

講談師のような方が座っていらして、わかりやすい説明を拝聴することができた。

 

内部は撮影禁止だが、後で訪ねた「いわき市考古資料館」でいただいたパンフに三尊像の 写真があった。

中央の阿弥陀如来像は左右の観世音菩薩像、勢至菩薩像に比べ縮小されている。

 

かつて堂内の壁には極楽浄土が描かれていたがそうだ。梁の一部に模様だけが残るが、その模様部分だけ、当時の極彩色が再現されていた。

 

お堂の横にはイチョウの大木が。

 

その先の池はかなり大きい。

創建当初の姿に復元された浄土庭園は、阿弥陀如来が住まう極楽浄土を平安時代に具現化したもの。そこに平安期からの阿弥陀堂が残っている。背景の山の緑も美しく、素晴らしい環境だった。

 

赤く色付き始めた木々も。これからの季節、浄土庭園は赤・黄・緑で色鮮やかになるようだ。

いわき市観光情報サイトで見事な紅葉の様子が見られる。

http://kankou-iwaki.or.jp/midokoro/history/historic_sites/65721