墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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牛鳴坂 武家屋敷門 弾正坂 東京都港区赤坂

今回も赤坂界隈。

赤坂見附から西に青山通りを上ってきて振り返ったところ。 

 

通りにすぐ面して大きなビルが建ちつつある。

 

大学の校舎だった。地上11階が平成30年3月末に建つ。

 

その横を南に入ると牛鳴坂。

 

工事囲いを背に標柱があった。

うしなきざか
赤坂から青山へ抜ける厚木通で、路面が悪く車をひく牛が苦しんだために名づけられた。さいかち坂ともいう。

 

青山通りが通る前は、この道が幹線だった(右上から左下に、南に膨らみながら通る道)明治9~19年東京時層地図より。

 

明治の終わりには路面電車が走る今の青山通りが出来た。

 

工事現場と小道を隔ててラクダが三頭。 

 

後姿。

 

ラクダのあたりから見下ろす牛鳴坂。

 

ラクダから道なりに上がっていくと道路沿いの一画に長屋門があった。重要文化財で説明板もある。

 

丸の内から一部だけを移築したものだった。

重要文化財 武家屋敷門
長屋門、桁行21.8m、梁間4.7m、二階建、切妻造、片流面出番所付属、本瓦葺
この武家屋敷門は江戸城東廓八重洲大名小路(千代田区丸の内東京中央郵便局付近)にあった幕府老中屋敷もの表門で、文久2年(1862)の火災後、当時の老中であった本多美濃守忠民(三河国岡崎藩)によって再建されたとみられる。
当時は桁行58間(実長約120m)にも及ぶ長大な長屋門であったが、左右が切り縮めされて、門と左右番所のみが移築されている。数少ない江戸城下の大名屋敷遺構のなかでも、5万石以上の諸侯または老中職に許された長屋門形式をもつ唯一の遺構である。

 

横から見たところ。もとは左右に120m!

 

長屋門の先には山脇学園。

 

道なりに進むと右手に弾正坂(だんじょうざか)があった。

 

標柱のある坂。

だんじょうざか
西側に吉井藩松平氏の屋敷があり、代々弾正大弼(だいひつ)に任ぜられることが多かったため名づけられた。

 

弾正坂は青山通りを超えた先まで続いている。上記の地図の、南北縦に一直線。

 

一旦牛鳴坂まで戻り、右に折れた。正面に向かうと丹後坂の下り。

 

そこまで至らずに手前の枝道を左折すると一ツ木通りへの抜け道がある。

こちらの本で紹介されていた細道。

massneko.hatenablog.com

 

だいたいこのあたりかと入って道は…

 

威徳寺の素敵な門で行き止まり。

 

別の道の先、ビルの脇が入口だった。

 

先が見通せない魅力。

 

曲がると長い下り階段。正面のガラスに自分が写る。

 

降りて見上げたところ。

 

その先は低い段差。うっかりつまづきそうになった。

 

次の右折で壁に「通路利用者」への注意書きがあった。通行は7時から19時半までの時間帯に限られている。

 

一ツ木通りへの接続部。

 

一ツ木通り側から。

 

そこからすぐ北の赤坂不動尊・威徳寺は参道の両脇が建設現場になっていた。

 

右はドンキホーテか。地上7階が今年の11月末に建つ。

 

左は地上5階が来年5月末に完了予定。

 

赤坂不動尊の境内は現代的だった。「首都圏最大級の堂内陵墓」とあった。

威徳寺 赤坂一ツ木陵苑 - [ニチリョク堂内陵墓公式ホームページ]室内納骨堂を探すなら|ニチリョク

 

こちらのかたのブログで、以前のお堂と山門が見られる。

赤坂不動尊威徳寺|港区赤坂にある真言宗智山派寺院

薬研坂 高橋是清翁公園 新坂 東京都港区赤坂

前回のつづき。

赤坂パークビルの前の道を北へ向かうと薬研坂になる。 

 

振り返って。

再建されたばかりのきれいな標柱。

やげんざか
中央がくぼみ両側の高い形が薬を砕く薬研ににているために名づけられた。付近住民の名で、何右衛門坂とも呼んだ。

 

ズームで。

奥は青山通り。

 

 以前この坂を青山通り側から撮った。

massneko.hatenablog.com

 

薬研の底で西への小路に入り、上っていくと長い石垣のある道に出た。

 

階段を上がって石垣の先の公園に入ることができた。

 

園内の少し高くなった場所に高橋是清翁の銅像があった。

 

2.26事件で暗殺された場所はこの地で、高橋是清翁記念公園となっていた。建物は小金井に移築されている。

高橋是清翁記念公園の沿革
この公園は、日本の金融界における重鎮で大正から昭和初めにかけて首相、蔵相などをつとめた政治家「高橋是清」翁(1854~1936)の邸宅があったところです。
翁は、昭和11年(1936)2・26事件によりこの地において83歳で世を去りました。翁の没後、昭和13年(1938)10月高橋是清翁記念事業会がこの地を当時の東京市に寄附し、昭和16年(1941)6月東京市が公園として開園しました。その後、昭和50年(1975)港区に移管されたものです。第二次世界大戦の空襲により翁にゆかりのある建物は焼失してしまいましたが、母屋は故人の眠る多摩霊園に移築されていたため難を免れ、現在は都立小金井公園にある江戸東京たてもの園へ移築されています。戦時中撤去されていた翁の銅像も昭和30年(1955)再建されました。
現在の面積は5320㎡で、国道246号線の拡幅等により開園当初よりやや減っていますが、和風庭園はほぼ当時のままの姿で残されています。
園内は池を中心として石像や石灯籠が配置され、樹木はかえで、もっこく、うらじろがし、くすのきなどたくさんの種類があり落ち着いた雰囲気をかもしだしています。
平成7年 港区

 

緑が目に優しい庭だった。

 

散歩されている方が多くいらした。

 

 

園内には赤坂区役所跡の説明板があった。

最初の赤坂区役所跡
明治初年の地方制度は、いくたびか改正の繰り返しが続きましたが、明治11年(1878)7月22日、近代地方自治の歴史上画期的な郡区町村編制法などの公布によって、同年11月2日、東京は15区6郡に区画され、区会も設けられました。
その時、現在の赤坂・青山の地域が赤坂区として誕生し、最初の赤坂区役所が赤坂表町3-5(現在赤さか7-2:本公園東隣敷地の一画)に置かれ、同年11月4日に開庁されました。初代区長は翌年1月、島津忠亮が任命されました。
赤坂区役所はその後、表町1丁目などに移り、さらに明治24年に現在の港区役所赤坂地区総合支所の位置に移りました。なお、芝・麻布・赤坂区は、昭和22年3月15日、統合されて港区となりました。
昭和49年1月設置(平成21年2月建替) 港区教育委員会

 

赤坂地区旧町名由来板もあった。

赤坂表町(あかさかおもてちょう)
古くは、一ツ木村に属していました。寛永13年(1636)に家康入国以来、よくその務めを果たしたということで、その土地を南伝馬町の伝馬役三名に褒美として与えられたことが、この町の起こりです。初めは赤坂新伝馬町と称し、ついで表通りが表伝馬町、裏通りが裏伝馬町となり、明治5年(1872)に赤坂表1~4丁目、胴4円(1911)に赤坂表町1~4丁目となりました。明治時代には、1・2丁目の東半の表通りは、商店街として賑いました。一方、3・4丁目は、旧武家地であり官公庁や華族などの邸宅地となり、商家は少なく、今日もこの状況を受け継いでいます。なお、地元では「あかさかおもてまち)と言っていました。

赤坂台町(あかさかだいまち)
古くは、麻布今井村に属し、江戸時代になると町域に青山御掃除町や専福寺門前(東北部)、種徳寺ほかの寺地(東部)、小身の武家屋敷などが区別されるようになりました。明治2年(1869)、青山御掃除町を中心とする区域が合一されて赤坂掃除町となり、同5年(1872)にその他の区域も加えられて赤坂台町と改称されました。丘続きで地勢が高いため「台町」と命名されたといわれています。

赤坂新坂町(あかさかしんさかまち)
古くは、麻布今井村に属していましたが、天正18年(1590)になると町域の北部は、青山忠成が徳川家康より賜った屋敷地の一部となり、南部には、岡部氏の下屋敷がありました。明治5年(1872)、町域が合一され、隣接する赤坂台町との境にあった新坂に因み、赤坂新坂町と命名されました。

 

高橋是清公園を青山通り側から出て、左隣のカナダ大使館を通り過ぎて左折する。

 

その先が「新坂」だった。この標柱も建替えられたばかり。

しんざか
できた当時は新しい坂の意味だったが、開かれたのは古く、元禄12年(1699)である。しんさかとも発音する。

 

ほぼ真っ直ぐにゆるやかに下る。

 

下から見上げて。

 

 

新坂の途中で左(東)に折れる坂も情緒があった。

 

左はカナダ大使館の広い敷地。

 

敷地の南東角。

 

角の対面に、広い空地があった。

 

新坂下から少し回り込んだ路地にある珉珉(みんみん)

お酢と胡椒で食す餃子はとてもおいしかった。