墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

伊東マンショの肖像 @東京国立博物館

前回のつづき。

2つの半跏思惟像を拝観した際に、同じ本館内で「伊東マンショの肖像」も見ました。

 

日伊国交樹立150周年を記念した世界初公開の「伊東マンショの肖像」54cm×43cm 

1585年、ヴェネツィア派の大画家ヤコポ・ティントレットが発注を受けて、息子のドメニコ・ティントレット(1560~1635)が完成させたとみられています。

 

うっすらとした髭に少年らしさがありますが、しっかりした鼻筋、自然に結んだ口元などには威厳も表されているように感じられました。

 

2014年3月にミラノのトリヴルツィオ財団が当肖像画の存在を発表し、少年使節団が16世紀のヴェネツィアで公式に歓待された事実と、これまで文献でのみ確認されていたティントレットによる油彩肖像画の存在とを裏付けることになりました。
発見の際の記事:天正遣欧使節、伊東マンショの肖像画発見 : 文化 : 読売新聞(YOMIURI ONLINE)

 

東博の公式ブログには、さらに興味深い「ドラマ」が書かれています。


天正遣欧少年使節天正10~15年:1582~1587)についての説明板。 

天正遣欧少年使節 Tensho Emassy to Europe
天正10年(1582)2月、有馬(現長崎県島原地方)のセミナリヨ初等教育機関)の少年4人が九州の切支丹大名の名代として長崎からヨーロッパへ向かいました。正使は豊後(現大分県)の大友宗麟の名代・伊東マンショ(主席)、肥前(現佐賀県長崎県)の大村純、有馬晴信の名代・千々石ミゲル、副使は肥前から原マルチノ中浦ジュリアン。いずれも13歳前後でした。この壮大な計画を立てたのは、イタリア・キエーティ出身のイエズス会巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノ(1539~1606)。日本での布教の状況を教皇や君主たちに知らせ、日本の教会へ資金援助を求めることと、帰国後に使節らがヨーロッパでの見聞を普及することが大きな目的でした。ところが、天正15年(1587)の豊臣秀吉による伴天連追放令、慶長19年(1614)の徳川家康によるキリスト教禁止令によって日本におけるキリシタンの状況は一変。4人は天正18年(1590)にそろって帰国しましたが、その後の人生は一様ではありませんでした。
宝永5年(1708)に来日したイタリア人宣教師シドッチは、新井白石から尋問を受けた際、かつて大友宗麟がイタリアに使節を遣わしたことを語り、携帯する冊子にある「豊後の大名の子の、法を受くる図」を見せたといいます。また、明治6年(1873)、岩倉具視を中心とする岩倉使節団ヴェネツィアを訪問した際には、仙台藩主伊達正宗が慶長18年(1613)に派遣した支倉常長の文書とともに天正遣欧使節の文書に出会い、その存在が日本で再び知られることになりました。平成26年(2014)の肖像画発見とこの度の公開は、これらの歴史的遭遇に並ぶものとして記念されるでしょう。

 

伊東マンショ(1569頃~1612)ら4人の少年を中心とする天正遣欧使節は天正10年(1582)に長崎を出航し、中国、インド、ポルトガル、スペインを経て、フィレンツェやローマ、ヴェネツィアを訪れ、ローマ教皇グレゴリウス13世との謁見式に参列するなどの歓待を受け、天正18年(1590)に帰国しました。

1582年といえば「いちごパンツ:本能寺の変」(子どもが中学受験準備中なので…)

そんな時代にこんな使節団が実現していたとは。

 

会場には長崎奉行所が所蔵していた三聖人像や、宣教師シドッチが所蔵していた聖母像(親指のマリア)も展示されています。いずれも重要文化財

 

公式サイトに添付されたpdfに、各作品の詳細解説があります。

東京国立博物館 - 展示 日本美術(本館) 特別公開「新発見!天正遣欧少年使節 伊東マンショの肖像」

 

シドッチ神父については坂道歩きで今年初めて知りました。

茗荷谷 釈迦坂 庚申坂 切支丹坂 切支丹屋敷跡 小日向一丁目東遺跡 東京都文京区小日向 - 墳丘からの眺め

切支丹屋敷跡から伊宣教師シドッチの遺骨出土のニュース - 墳丘からの眺め

 

こちらも「ほほえみの御仏展」と同じく、今週末の7月10日まで。

 

 

天正少年使節については、こちらの本を読みたいと思っていますが、ボリュームがあるので緒に就いていません。

クアトロ・ラガッツィ (上) 天正少年使節と世界帝国  (集英社文庫)

クアトロ・ラガッツィ (上) 天正少年使節と世界帝国 (集英社文庫)