前回のつづき。
新座市立歴史民俗資料館は「道場」のバス停から徒歩3分。
資料館パンフの交通案内には、ひばりが丘駅、大泉学園駅、志木駅、朝霞台駅からのバス利用が案内されている。
先日、新座駅から歩いた平林寺から南に2kmの地点。
入場無料。一つの展示室に歴史資料と民俗資料が半々ぐらい展示されていた。
考古資料は古墳時代の遺跡は乏しかったが、旧石器時代の石器類や縄文土器、弥生土器などの展示もあった。
資料館のパンフによると、新座市は柳瀬川と黒目川沿いに開けた沖積低地と、その間の野火止台地から成り、市域には両河川流域を中心として100以上の遺跡があるそう。
古墳時代から奈良時代にかけてムラがへ拡大し、天平宝字2年(758)に武蔵国の「新羅郡」が、現在の新座市・志木市・朝霞市・和光市周辺に設置され、律令政治のもとで先進文化をもつ新羅人の政治的移住が行われたとのこと。
新羅郡はその後、平安時代に新座(にいくら:新倉・爾比久良)となってその名は明治中期まで続き、昭和30年の市町村合併で新座(にいざ)町に、その後に新座市になっている。
新座が新羅と関わりある名前だったと初めて知った。
野火止台地の成り立ちの解説は興味深かった。パネルの前には縄文土器(右端は弥生土器)
約12万年前の「下末吉海進」の図。Nの新座もTの東京も海(古東京湾)の中で、現在の千葉県は「房総島」と「銚子島」の”島国”。
約6万年前の「下末吉海退」 新座は荒川の支流の柳瀬川(上)と黒目川(下)、荒川(右)に囲まれている。
約6000年前の「縄文海進」
再び海が奥まで侵入し、新座も海浜地区になっている。関東内陸部でも多く貝塚が形成された時代。
現在の様子だが、浦安は埋立てられる前の姿か。
民俗資料のコーナー。茶の製造や機織の道具があったが、農家は自給のために使っていたようだ。
力の入った野火止用水の展示。近くに荒川があるにも関わらず、遠く玉川用水から引いてきたのは、洪水を繰り返す荒川の水はコントロールできなかったからだそう。
野火止用水は下流で新河岸川を橋でまたいで荒川に合流するが、これは物流の幹線だった新河岸川に影響を及ぼさないためであったからとのこと。
以上の話は学芸員の方(館長?)に解説していただいた。
このほかにも南極探検の白瀬中尉の資料(昭和17年から19年まで、片山村・現新座市に在住)などもある。
資料館を出ると目の前に大きな桜の木があった。