墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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長塚古墳 静岡県沼津市東沢田

前回のつづき。 

高尾山古墳の見学後、北西に700mの距離にある前方後円墳・長塚古墳を訪ねた。 

 

緩く南に下る傾斜地に、長軸を東西方向に向けて築かれている。 道路沿いに説明板があった。

 

筆文字の説明板。

長塚古墳(ながつかこふん) 一基
時代:古墳時代中期末
形状:前方後円墳
規模:長さ東西55m、後円部直径32m・高さ5m、前方部前端幅17m・高さ3.5m・長さ23m
周溝:幅10m、深さ0.8m
この古墳は子ノ神古墳、神明塚古墳とともに市内に残る3つの前方後円墳のうち最も原形をとどめている古墳です。
昭和31年8月、明治大学の故後藤守一教授(沼津出身)によって発掘調査が実施され、墳丘及び中腹部に二段の円筒埴輪列が認められました。後円部の内部主体は盗掘され、鉄製の鉾身の残片と石片が得られただけでした。しかし墳丘南側の周溝から多くの土師器や須恵器が出土し、祭事場の存在が推定されます。これらの遺物と墳形から被葬者は古代スルガ地方の大豪族と考えられています。
平成4年10月 沼津市教育委員会

 

説明板の下に「概略図」があった。現在地は左下の前方部裾になる。

 

説明板の右側に上り道がついていた。 

 

墳丘上は草が刈られて見学しやすかった。

 

前方部から南側の眺め。

 

くびれ部(鞍部)から前方部。 

 

振り返って後円部。

 

 後円部上の様子。

 

光っている海面は駿河湾が伊豆半島の西肩上に入り込んだ部分。つまり奥の山は伊豆半島。

 

墳丘から降りると、海面は見えなくなった。

 

南側から見た墳丘。左が前方部、右に後方部。

 

後方部の南面は樹木が繁って墳丘面の形状がわかりにくい。

 

回り込んで後方部の先から。

 

ぐるりと回って墳丘の北側へ。 

 

北側から見た前方部。右に後円部が続く。

北から南に下る緩い斜面に立地するので、こちら側からだとあまり高さを感じなかった。

 

沼津市のサイトには、昭和31年8月の発掘調査で埋納部から板石片が多く検出されたので棺は組み合わせ式箱型石棺であることや、周溝南中央部祭祀跡で採取された土器により古墳の造営時期が6世紀前半であることなどが推定され、平成9・10年度の再調査で墳丘長54mに周溝と堤を加えた全長が75m前後となること等が記されている。

平成11年11月に静岡県県指定史跡となった。

http://www.city.numazu.shizuoka.jp/shisei/profile/bunkazai/kofun/naga.htm

高尾山古墳(辻畑古墳) 静岡県沼津市東熊堂・西熊堂

前回のつづき。

香貫山から沼津市街の北側へ、昨今全国ニュースでも時々取り上げらている高尾山古墳へ向かった。

墳丘に隣接して熊野神社がある。 

 

東日本で最古級、かつ初期古墳としては最大級の大変貴重な古墳。

邪馬台国と対抗していた狗奴国(くなこく)の有力者の墓とする説もあるとのこと。

前方部から後方部方向を参道脇から。

沼津市のサイトによれば、築造年代は西暦230年頃で埋葬が250年頃と判断されるとのこと。埋葬部から出土した金属製品などは250年頃のものと推測されるが、周溝から出土する土器は230年頃から250年を過ぎるものまで存在し、墳丘内部の土器は230年頃のものに限定されることがその根拠。

古墳時代の始まりとされる箸墓古墳が250年頃の築造なので、当古墳は畿内統一的王権の成立以前に東国でも独自に古墳時代へ移行しつつあったことを示している。

http://www.city.numazu.shizuoka.jp/shisei/profile/bunkazai/kofun/takaosan.htm

 

現地の説明板は簡素。

高尾山古墳(前方後方墳) 古墳時代初頭 全長約62m
墳丘高:後方部約5m 前方部約1m 周溝幅:約8m

 

四角く盛り上がった後方部墳丘。

最近まで後方部上に高尾山穂見神社が、前方部には熊野神社が鎮座していたが都市計画道路が建設されることになって神社は隣地へ移転、発掘調査で全長約62m(後方部約31m、前方部約31m、周溝幅8~9m程度、ただし南端は2m前後)の前方後方墳であることが確認された(前出の沼津市サイトより)

墳丘の築成は、尾根を旧石器時代の地層まで平坦に削平してから、黒色土を1m、さらに4mほど版築で盛り土している。

後方部上からは、舟形木棺(東西幅約5.1m、南北幅約1.3m)を直葬したと考えられる南北約5m×東西約6mの墓坑が見つかり、副葬品として破砕鏡(上方作系浮彫式獣帯鏡)1面、勾玉1点、ほか鉄製の武具及び工具等が出土した。

周溝からは当地域の大廓式土器の他、東海西部系、北陸系、近江系土器も出土している(沼津市の同サイトより)

 

グーグルアースで見ると前方後方墳の形状がよくわかる。西側の道路や神社参道で若干墳丘が削られているが、直前まで整備された計画道路は墳丘の中心を通る。

 

墳丘の西辺、くびれ部あたりの横を通る現在の道路から。

 

参道は計画道路に沿っていて、 つきあたりは穂見神社。

 

熊野神社社殿は参道の右手にあった。

 

計画道路が迫る墳丘の北側。

市のサイトでは「現地保存を模索している」状況だが結論は出ていない。

http://www.city.numazu.shizuoka.jp/shisei/takaosan/index.htm

https://mainichi.jp/articles/20170831/ddl/k22/040/326000c

 

ビニールシートの端で、庚申塔が顔を出していた。

 

奥宮の前から東方向。

当地が周りより高く、愛鷹山から南に延びる尾根の末端にあることがわかる。

 

奥宮前から参道方向。右の木の後ろが高尾山古墳。

 

北側、後方部の先から見た墳丘。 

 

振り返ると工事が中断した道路。

 

道路の上の高架は新幹線だった(新幹線がこの場所を通らなくてよかった・・・)

この古墳は新幹線の車窓(海側)からも一瞬見えるということになる。

 

上記位置から左に視線を移すと高尾山古墳。

道路計画がなければ神社の下の墳丘が発掘調査されることはなく、ここが特に貴重な古墳であることはわからないままだったが…

1800年近く前の大変貴重な土木構造物であり、今後ますます重要な意味を持つ可能性がある祖先の墓でもある。なんとか残していただきたい。