墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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千登世橋 宿坂 金乗院(目白不動) 東京都豊島区高田

 6月中旬に、NHK・Eテレの「趣味どき!」という番組で「おとなの歩き旅:上って下って江戸の坂~東京23区~」という内容の回があって思わず見入ってしまった。

「胸突坂」や「富士見坂」とともに、未探訪だった目白の「宿坂(しゅくざか)」や「のぞき坂」が取り上げられていたので行ってみた。

 台地の上の目白駅北口。目の前に目白通りがある。

 

駅を出てすぐの学習院大学西門。

 

目白通りを250mほど行くと学習院大学正門。

 

さらに進むと、学習院中等科・高等科の門。

 

その先の目白通り沿いにあった「民芸だいよし」

 

貴重な、板塀の建物。

 

重厚な千登世橋の親柱。

 

明治通りが目白通りの下をくぐっている。

 

明治通りの歩道に連絡する重厚な階段。

 

階段脇から見た千登世橋。

 

ちょっとした広場にあった橋の解説。

千登世橋は、昭和7年に橋長28.0m、有効幅員18.2m日一径間鋼ヒンジアーチ端で架設された。
この橋は、明治通りと目白通りとの立体交差橋で都内でも土木史的価値の高い橋として「東京都の著名橋」に指定された。
著名橋整備事業として、千登世小橋と共に親柱、高欄、橋側灯及び橋詰空間など歴史的原型の保全を行い、文化遺産継続の願いをこめて修景を施したものである。
施行年度:平成2年度 施行者:東京都第四建設事務所

 

その近くには「來島良亮君 1885-1933」の銅像が。

関東大震災の帝都復興事業を計画・実行した東京府土木部長だった方とのこと。

https://kotobank.jp/word/来島良亮-1072646

 

歩道の東側には都電の軌道もあった。

 

待っているとすぐに三ノ輪駅行きが来た。

 

くぐった先の方向。次の駅は鬼子母神前。この橋は千登世橋に連なる小千登世橋。

 

目白通りの山口精米店。屋根が面白い形をしていた。

どの街でも米屋の建物はその界隈の風情を形づくっていると思う。

 

「鬼子母神表参道入口」があった。

 

目白通りの対岸が、宿坂(しゅくざか)への入口になる。

 

割と長く、なだらかな坂。 

 

坂下の金乗院の門前にある解説板。

宿坂道
中世の頃、「宿坂の関」と呼ばれる場所がこの辺りにありました。天保7年(1836)出版の「江戸名所図会」には、金乗院とともに「宿坂関旧址」が描かれています。金乗院の裏門の辺りにわずかな平地があり、立丁場(たっちょうば)と呼ばれ、昔関所があった跡であるとの伝承が記されています。この坂の名が「宿坂」といわれているのは、おそらくこれにちなむものと思われます。
また金子直徳著「若葉の梢」(寛政10年・1798)によれば、宿坂の関は関東お留の関で、鎌倉街道の道筋にあったといわれています。鎌倉街道は、高田馬場から雑司ヶ谷鬼子母神方面へ抜ける街道で、現在の宿坂道よりやや東寄りに位置していたようです。
江戸時代には竹木が生い茂り、昼なお暗く、くらやみ坂と呼ばれ、狐や狸が出て通行人を化かしたという話が今に伝わっています。

 

立派な門のあるお宅。

 

”くらやみ坂”の名残りが感じられた。

 

坂下にある金乗院の山門。植木の剪定作業中だった。 

 

山門の向かい側の車庫には釣鐘があった。

 

そこから見上げる宿坂。

 

門前にあった金乗院の解説。

目白不動 金乗院
所在地:豊島区高田2-12-39
金乗院(こんじょういん)は真言宗豊山派の寺院で、開山永順が本尊の聖観世音菩薩を勧請して観音堂を築いたのが草創とされています。永順の没年は文禄3年(1594)6月であることから、それより以前、天正年間(1573~92)の創建と考えられます。当初は蓮花山金乗院と称し、中野宝仙寺の末寺でしたが、のちに神霊山金乗院慈眼寺と改め、護国寺の末寺となりました。
江戸時代には近辺の此花咲耶姫社などの別当でしたが、昭和20年4月の戦災で本堂等の建物や、水戸光圀の手になるという此花咲耶姫の額などの宝物は焼失しました。現在の本堂は昭和46年に再建され、平成15年に全面改修されました。
目白不動堂(東豊山浄滝院新長谷寺)は、元和4年(1618)大和長谷寺第四世小池坊秀算が中興し、関口駒井町(文京区)にありましたが、昭和20年5月の戦災により焼失したため、金乗院に合併し、本尊の目白不動明王像を移しました。
目白不動明王は、江戸守護の五色不動(青・黄・赤・白・黒)の随一として名高く、目白の号は寛永年間(1624~44)に三代将軍徳川家光の命によるといわれています。
墓地には、槍術の達人丸橋忠弥、青柳文庫を創設した青柳文蔵などの墓があり、境内には寛文6年(1666)造立の倶利伽羅不動庚申塔をはじめ、寛政12年(1800)造立の鍔塚など多くの石造物があります。
平成19年3月 豊島区教育委員会 

 

昭和46年再建、平成15年に改修された本堂。

 

目白不動明王がおられる不動堂。

 

すぐ脇が宿坂。

 

槍術の達人、丸橋忠弥の墓。

由井正雪の幕府転覆計画に加わったが、密告で計画が露見し捕縛され、慶安4年(1651)に磔で処刑されたそうだ。

https://ja.wikipedia.org/wiki/丸橋忠弥

 

金乗院の墓地は本堂北側斜面に広がっていた。

高田富士(水稲荷神社)への登拝 東京都新宿区西早稲田

西早稲田の水稲荷神社へは昨秋、移築された古墳を見に参拝した。

massneko.hatenablog.com

 

その時は、同じ境内に富士塚があったことに全く気づいていなかった。

この「高田富士」こそが、安永9年(1780)に築かれた江戸市中最古の富士塚(が移築されたもの:追記)と知り、7月16日に再訪した。

こちらの富士塚は年に一度、海の日とその前日にのみ登拝が許されているとのことなので貴重な機会。

 

早稲田通りの西早稲田交差点から北へ降りる坂の途中に階段のある参道があった。

 

水稲荷神社富士祭の提灯が飾られる。

 

水稲荷神社への参道には屋台も出始めていた。

 

水稲荷の拝殿に参拝し、その裏の富塚古墳へも参拝。

 

他に誰もいない。

こちらが古墳を再利用した富士塚だと思っていたのは誤りだった。

 

参道を戻っていくと、最初の提灯の門からすぐのところに登山道の看板が出ていた。

 

高田富士の解説板。

高田富士

安永9年(1780)、大先達 日行藤四郎が身禄同行という富士信仰の人達(富士講)と白い行衣を身につけて、富士山頂の岩や土を運んで、9年5ヶ月の末、ついに富士塚を築きました。藤四郎の富士登拝は、58回ともいわれています。

御山は高さ10m、江戸の人造富士中最大最古のものです。

江戸の町民で富士山に行きたくとも行けない人達は、この富士山に登って、富士講で富士登山すると同じ心境を味わうことができるということで大変な人気でした。 これのまねをして江戸のあちこちで富士塚が造られました。

御祭日は7月16,17日(2017年)、ふもとに浅間大神を祀り、5合目に小御岳大神を祀っており、毎年富士祭として3日間(2日間?)御山登拝ができます。

順路にそって足元に気をつけて登ってください。道のない所は危険ですから行かないでください。

 

築造に9年半もかかっている。58 回もの富士登山は現代の装備でも困難なのでは(当然1合目からであるし山小屋もないであろうし)

山頂から重い溶岩を持ってくることなど無理(しかも江戸まで!)

 

富士塚は広重も描く名所となった。

 

登り口は、富士塚に関する資料のギャラリーになっていた。

 

いざ登山道へ。

 

矢印に従って進む。

 

板に墨文字の説明。

 

最初は頂上が見えない。

 

登山道に沿って電灯が連なっている。夜間登拝も行われるようだ。

 

頂上が見えてきた。

 

山頂の祠に参拝。

 

こちらの山頂では鐘を鳴らすようになっていた。2回長く、4回短く、最後に長く1回、計7回鳴らす。下山してからも鐘の音が響いていた。

 

山頂から水稲荷の参道。

 

樹林に覆われて遠望は効かなかった。

 

登山道は一方通行で、下山の道は別にあった。

 

下山途中から山頂。

 

下山口。

 

降りてすぐ右手に胎内窟もあった。

 

近くには大正期に胎内窟を修築した際の大きな石碑があった。

 

登山口の左手に浅間神社拝殿があった。夏山登山の無事をお願いした。

 

入口に「ギャラリー」にあった昭和30年代の写真。

 

新宿の成子天神社富士塚の勇姿もあった。

 

公式サイトには夜の写真もある。登拝者が少ないと思っていたら、夜に大賑わいになるようだ。海の日の夕暮れ、都心の富士山に登拝されてみては。

mizuinari.net